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年間第12主日(2018年6月24日 <マルコ4・35-41>)

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

この福音書を書いたマルコとは、ペトロの通訳で、彼の言葉を忠実にそのまま書き記したようです。したがってこの福音書の記事には、ペトロの声が響き、そしてペトロが抱いていたイエス様の思い出がこもっていると言ってよいでしょう。
ではペトロにとってこの出来事(船上のイエスが言葉で突風を静めた)は、いったいどのような思い出だったのでしょうか。
舟が沈むかもしれないと脅えていた自分たちのまえでイエス様は、風を叱りつけ、「黙れ、静まれ」と湖に向かって命じました。一見奇妙な振る舞いですが、その言葉のあと、実際に風がやんでしまいました。この命じる行為と風がやむという自然現象とが因果関係で結ばれているとすれば、つまりたまたまこの言葉を発した時に風がやんだのではなく、現実にこの言葉が自然現象に変化をもたらしたとすれば、それはもはや人間業ではないことになります。
そこで彼らは、突風や波で舟が沈んでしまうことの恐ろしさよりも、目の前の人の存在に対して、非常なる恐れにとらわれます。「いったい、この方はどなたなのだろう」。
イエス様と共にあるにもかかわらず、依然として「舟が沈んでしまうかもしれない、そして死んでしまうかもしれない」と恐れていた弟子たち、命の危険に脅える彼らにイエス様は問いかけます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この「まだ信じないのか」は、ラテン語では「まだfidesを持たないのか」という言い方になっています。神様イエス様に対する彼らの心の中のすきまを突いているかのようです。
この一連のやりとりを通してペトロをはじめとする弟子たちの中に、イエス様という存在のすごさが自覚されてきたと言えるでしょう。普通の人ではないイエス様、ただの人ではないイエス様、そしてイエス様の何者であるかは、その後の体験で確証されてゆくことになります。とりわけ十字架上での死と復活によって、神の子であることが確証されることになります。
イエス様復活の後にペトロがこの出来事を思い起こし語る時には、世の中という荒海に渡る教会という舟の舵取りをしてくださる自分たちのあるじ神様イエス様のことを思い浮かべ、この話を語って聞かせている会衆ともども、イエス様への信頼を確かめていたと考えられます。
一宮教会 浅井 太郎 神父