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年間第20主日(2018年8月19日 <ヨハネ6・51ー58>)

〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

21世紀になっても世界では、今だにどこかで戦争をしているのが現実であります。どちらが「正義だ悪だ」はさておいて、人々の気持ちは決して争いなど望んでないのにいざこざや迫害が止まらないのは悲しい事であります。戦争を引き起こすのは人間同士、日々のトラブルを起こすのも人間同士です。それを解決し本当の平和に導くのは神様の意向を人間が実行する以外にはないと私たちは知っているつもりでおりますが、・・・であるなら神様に平和を乞い求め祈る以外になにがあるのでしょうか。もちろん祈る以上は口先だけの祈りになってはなりません。具体的にどのように?と問われても「これだ」という答えは、なかなか見つかりません。この日本ではまがりなりにも今は平和であります。「平和ボケ」と言う言葉がありますが、人間はややもすると平和を願う気持ちそのものを見失しないがちであります。せめてその気持ちだけでも意識して持ち続けたいものであります。
 私たちは感謝の祭儀の中で「主の平和」と言う言葉ををお互いに交わしますが、
 神様の下さる平和があなたのうちに、そして私のうちに実現しますようにという気持ちを込めて「主の平和」を交わすとき、それはほんとうの祈りとなり、わたしたちのうちにすでに実現している平和であると思います。地球規模で見れば本当に小さな、取るに足らないような平和かもしれませんが、これこそ基本となる平和であると感じます。
 さて、本日の福音朗読箇所からなにを日々生きてゆく糧とするのかをヨハネ福音書ではずばり「パン」であるといっています。「天から降って来たパン」
 このことを考察する前に、ヨハネ福音書について少し話しておきますと、ご存知のように四つの福音書で最後に記されたのがヨハネ福音書であります。紀元90年ごろ書かれたそうでありますが、イエス復活後すでに約60年近く過ぎた時でありました。 今の日本は大戦後73年も過ぎ、戦争体験者は少なくなり、お年寄りばかりになっています。
 ましてや、古代のあの時代の寿命は現代とは比較にならないほど短かったでしょう。ですから肉なるイエスを知っている人はほとんどいなくなっていたことでしょうし、いたとしても指で数えるほどだったと思います。
 いずれにせよこの頃はと言いますと、原始キリスト者たちがユダヤ教の「イエス派」と見なされていた時代から、「キリスト教」として独立していく時代の最後の福音書でありました。
 そんなわけで最初のマルコ福音書では、イエスの生涯を淡々と書きつつ、救い主であることを言い表しているのに対して、ヨハネ福音書は、イエスのキリスト論を展開している福音書であると言えます。わかりやすく言えば、イエスは救い主であることを前提にし、その救い主とはどんな方であるかという、神学的な要素を伝承を駆使しつつ書かれているといってよいと思います。
 その「キリスト論、救い主とは」を、ヨハネ福音書で述べるとき、本日の朗読箇所ではイエスの言葉として大半を占める形で述べられていまして、「わたしは天から降って来たパンである」。ユダヤ人でなくともこのように言われたなら、どういうことだろうかと首をかしげるでしょう。しかしわたしたちは、ヨハネ福音書を最初に読んだキリスト者と同じ、信仰をもっています。ですから次に展開されるイエスのことばを信仰者でなければおかしなことだと思うのが普通ではないでしょうか。
 ややもすると信仰者であるわたしたちも、ユダヤ人のように議論し始めたかも知れません。いまも昔も世の中の道理や理屈で考えると、議論せざるを得ないのかもしれません。
しかしイエスは、「あなたたちが思い巡らすことのできる常識道理で考えるのはやめなさい、神様からいただいた信仰の恵みがなければ理解できないことだから」そして私達がこの御言葉を耳にする、あるいは読むこと自体「神様に導かれていることなのだ」とおしゃっているのではないでしょうか。 ここに書かれている「天から降ってきたパン」とか「世を生かすためのわたしの肉」とかの御言葉の神学的意味を吟味する以前に、わたしたちは導かれて信仰者となり、御言葉を聞くことの出来る恵みに、まずは神に感謝したいと思います。
名古屋教区 光山 相泰 助祭