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待降節第3主日(2019年12月15日 <マタイ11・2-11>)

〔そのとき、〕ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。  『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、   あなたの前に道を準備させよう』 と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

11月23日―26日、38年ぶりのフランシスコ教皇の来日が実現しました。私も今回、富山地区の信者さんとともに、東京ドームでおこなわれたミサに参加しました。

私自身、パパ様とお会いするのは、今年1月に中米パナマで開催されたWorld Youth Day(世界青年大会)でお会いできたので2度目となりますが、わたしたちの住む日本においでになり、ともにミサにあずかることができたことは、とても感慨深いものがありました。

82歳(12月17日には83歳のお誕生日を迎えられます)という高齢にもかかわらず、わずか滞日4日間の限られた時間の中で、東京だけでなく、被爆地である長崎、広島も訪問され、とてもハードなスケジュールを精力的にこなされました。

今回の教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため~Protect All Life~」でした。
パパ様は、「実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れなさい」(東京ドームミサ説教(11/25)より)とおっしゃられました。説教の中でパパ様が、仮に「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れ」(同)なさい、と。

「障害を持つ人や弱い人、よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しない人」(同)なのか?と。少なくともイエス様は違ったハズだ、とパパ様はおっしゃられました。「重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめ」(同)られた、と。「十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされた」(同)ではないか、と。

そういった、説教やスピーチをあらためて、インターネットであげられている動画等で振り返りますと、パパ様の言葉には力強さを感じますし、東京ドームのミサにおいても、パパモービルで場内をまわられながら、子どもたちを祝福される姿、またわざわざ車を降りて、障碍者の方々にも1人ひとり祝福を与えられる姿に、わたしたちは励まされ、同時にキリスト者の姿としてどうあるべきなのか、ということも模範によって示してくださったと思います。

「貧しい人は福音を告げ知らされている」
今日の福音、「来るべき方」が本当にあなたなのか、洗礼者ヨハネが、イエスに直接尋ねるために、自分の弟子たちを何人か送った際の応答の一節です。イエスは直接的な答えを与えずに、ただヨハネに証拠を報告するように、と彼の弟子たちに命じます。人々は癒され、耳の聞こえない人は聞こえ、福音は貧しい人々に告げ知らされると。

ここでいう「貧しい人」というのは、まさに、弱い立場に追い込まれたり、神に救いを求める人、ということができると思いますが、わたしたち1人ひとりの「貧しさ」を考えることも大切ではないでしょうか。すなわち、1人ひとりの「貧しさ」とは何かということ。「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何かということを見つめたいと思います。

パパ様が、東京カテドラルでおこなわれた青年の集いの中で「霊的な貧困」という表現をされました。物質的には豊かな日本でありながらも、孤独に支配されて生きている人が多いこと、マザー・テレサの言葉を借りながら、「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困」だ、と訴えられました。

本当にそうだと思います。ですから、わたしたち自身が、この「貧しさ」を見つめることは、きっと待降節の大きなテーマとなると思います。なぜなら、イエス様の降誕の中にこそ「貧しさ」があるからです。でも、この貧しさや苦しみの中にたとえあっても、降誕物語は、決して孤独ではないということ、そして、大きな神の愛に包まれていることに私たちは気づきたいと思います。

だからこそ、イエスこそ本当のメシアであり、また旧約のイザヤのような預言者たちによって預言されていた天の国をもたらそうとしていることを、イエスはヨハネに伝えたかったのではないでしょうか。

わたしたちも、今回のパパ様の訪日からいただいたたくさんのお恵みを心のポケットの中にいれるだけでなく、その恵みをつかって、「喜ばしい知らせ(福音)」を伝えていけるように、信頼と希望をもってクリスマスを迎えたいと思います。

富山地区 片岡 義博 神父