TOP画
年間第2主日(2019年1月20日 <ヨハネ 2・1-11>)

〔そのとき、ナザレの会堂で予言者イザヤの書を読まれた〕イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

最近、「ホームパーティー」は耳にしますが、近所の女性たちを動員して、結婚披露宴や、通夜とか葬儀の食事の準備をする慣習は少なくなってきたようです。イエス様の時代は、そして今でもあるところではそれが一般的で、イエス様のお母さんが披露宴におられたということは、そのためのお手伝いに行っておられたのでしょうか、それとも招待客としてそこにおられたのでしょうか。また、イエス様はお弟子さんとその披露宴に参加して新郎新婦たちや客たちとワイワイガヤガヤとどんな話をしておられたのでしょう。多分、ここでは、自分の行く末の受難と死のことには言及されなかったでしょう。ついでながら、ヨセフのことはこの段に出ていないので、すでに帰天しておられたのではないでしょうか。

イエス様のお母さんは客に振る舞うワインが切れてしまったので、息子のイエスに「なんとかならない?」と耳打ちされたのですが、イエス様はそっけなく「そんなことは私に関係ありませんよ」、さらに「自分の出る幕はまだ来てませんよ」とすげない返事をされました。しかし、彼女のほうも息子の返事に無頓着に、息子のイエスがなんとかしてくれることを確信して、「とにかく息子の言うとおりにしてちょうだい」と係の人に言われました。係の人はイエス様が金入れを出して、これで買い足しなさいとでも言われるのか指示を待ちます。そうしたら、イエスは100リットルほど入る身を清める水入れの甕(カメ)がそこに6個あったので、それらのカメに水を一杯入れるように言われました。係は近くの井戸か貯水槽から水を運んできて満杯にしました。イエスは「ご苦労さん。それを宴会の世話役に試飲してもらいなさい」と指示されたので彼らはそうしました。世話役はそれをテースティングして、「こんな上等な酒があるなら、どうして最初に出さないんだ」と花婿にいちゃもんをつけました。そう言われたって、彼にも訳が分かりません。またそのワインの量も半端ではありません。750ミリリットル入りの瓶だと約800本分です。こうして、イエスは最初の「しるし」をカナで行い、神の栄光を現わされたというお話しです。

私たちは科学的大発見者、国難を救った人、芸術の優れた作品の創作者、音楽の優れた演奏家、スポーツ競技の優勝者などの英雄や天才に栄誉を与えるのは、凡人にできないことをやり遂げたのですから、理に適ったことでしょうし、人々を鼓舞することにもなります。と同時に、その才能やそれを発揮させてくださったのは神であることを心得ている人にとっては、自分(たち)を通して神の栄光を現わさせていただいたことこそが栄誉なことだと思うに違いありません。

ついでながら、ヨハネの福音書は、2回目の「しるし」は、カファルナウムで重病になっている王の役人の息子を、そのベッドサイドではなく、道中で癒されたと述べております。それ以後、何回目のしるしを行い、神の栄光を現わされたとは逐一述べられておらず、同福音書の最後の章で、「イエスのなさったことはこの福音書に述べた事以外にいっぱいあるが、それを逐一ここに述べれば、世界中の本にも収めきれない」とあります。イエスの行った最大のしるしは、自分の命を十字架上で捧げたこと、その死に対する勝利として「復活」の栄光を現わされたことでしょう。これまでに、どれだけ多くの人がわが子のため、親のため、友のため、祖国のため、信仰のため、真実を報道するために自分の命を捧げ、イエスに続く栄光を現してきたことでしょう。仮にそういう劇的なことをしなくても、自分の財産・食料・時間をもっとも小さな人のために少しは捧げて、神の栄光の一端を現してきたことでしょう。イエス様はそれを覚えておられ、終わりの日に復活という栄光をお与えくださいます。

また、イエス様がカナの婚宴の場で「最初の」しるし、人間の目からすれば水を上等なワインに変えるという奇跡を行われたことは、イエス様がこれから新しい人生を歩み始める新婚カップルにワインを切らしたことで恥をかかせないように、そして結婚を神聖なものとして祝福されたことも含まれているでしょう。つまり、結婚を評価されないのであれば、披露宴に弟子たちと参加することも、水をワインに変えて新郎新婦にプレゼントなさることもなかったでしょう。そして、新郎新婦をはじめ、参加者にとって、この結婚披露宴は生涯忘れえないことになったでしょう。そして、イエス様を信じるきっかけになったことでしょう。

 さらに、「マリア」という名はこの個所で出てこないで「イエスの母」と出ていますが、聖マリアは私個人のこと、教会のこと、家族のこと、人類全体のことをいつも心遣っていてくださることも含まれていると思います。

 イエスの2回目のしるしは遠隔操作というか、距離・空間を超越して行われましたが、今日、私たちはテレビで放映されるすべての死者、病人、負傷者、被災者、難民、孤児の方々のために、直接、お助けすることはできなくても、その映像の前で、その方々のために祈ることを忘れてはならないと思います。

そういうことで、身のまわりや世間で起こっている現象の中に神の国の兆しと栄光を発見しながら、私を通して、教会を通して、今日の第2朗読にある私たち一人一人に授かっているタレントを十全に発揮できますように、そして神の栄光を現わさせていただけますように、祈り、励んでいきたいと思います。アーメン。

<追記> この拙文をインターネットでお読みいただける方は、参考になりそうな資料や情報を以下のサイトでも発信しておりますので、ご参考にしていただければうれしいです。http://www6.plala.or.jp/pax-terao/        (2018年12月20日記)
膳棚教会 寺尾 總一郎 神父