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主の洗礼(2017年1月9日 <マタイ 3・13-17>)

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

今日はイエスが洗礼をお受けになられた時のことが語られます。洗礼に関しては、今日の福音の直前の個所にある様に、救い主の到来を準備するために、洗礼者ヨハネが人々に水による洗礼を授けていました。エルサレムとユダヤ全土、あらゆるところから人々が集まり、ファリサイ派やサドカイ派の人々もヨハネのところにやって来たのです。ヨハネはその折「悔い改めにふさわしい実を結べ」と彼らに言い、救い主の到来の準備をさせていました。

そんな状況の中、イエスが洗礼者ヨハネのところにやって来て、洗礼を受けようとされたわけです。悔い改めが必要な人が罪を悔い改めて、心を入れ替えて新たにされ、神に従って歩んでゆくための洗礼ですが、そこに神の子、罪のないお方が洗礼を受けに来られたのです。このことを洗礼者ヨハネは神の恵みによって理解したのでしょう。そしてイエスに向かい「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに…」その様に言います。ヨハネにとって、イエスの行動は、」考えもつかなかった、及びもつかなかった驚くべき行動だったでしょう。

ヨハネはイエスに率直に疑問を投げかけますが、イエスから言われたことに従いました。イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしい…。」とヨハネに言われます。イエスが洗礼を受けることは正しく、そしてふさわしいことなのですね。神の救いの計画は計り知れません。神は人がヨハネから洗礼を受けるのを望まれました。人となられた神の子、イエスはその父なる神の御心に従われます。

わたしたちのところへと来て下さった、人となられた「みことば」。まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストは、その様なお方なのです。私たち人類の先頭に立って、洗礼をお受けになられ、後の人がそれに続く様に自ら手本を見せて下さいました。後に続く私たちは安心してイエスに従って、イエスに倣って、洗礼を受けて、神の子とされて新たに歩んでゆくことができるのではないでしょうか。

 イエスが洗礼をお受けになられた時、水から上がられると不思議なことが起こりました。天が開いて神の霊が降っただけでなく、天から声も聞こえたのです。イエスが誰であるのか。そのことを目に見える形で、耳に聞こえる形で、神は具体的にお示しになられたのです。

「わたしの愛する子」。イエスが神の子であり、神が愛しておられるお方であることを、神は語って下さいました。同時にそのお方は「わたしの心に適う者」神の望みを自分のものとしてなさる方、行われる方、歩まれる方であることも示して下さいました。

私たちは今日、イエスの洗礼を思いながら、その場面を思い巡らしながら、洗礼によって罪に死んで神に生きることを、一人一人自分の中で新たにすることができればと思います。そして神の望みを自分の望みとして歩むことができますように。神の御心に適った歩みを歩むことが、歩み続けることができる様に願いたいと思います。その様に歩んでゆくとき、神がご自分の子、イエスに語られた様に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と私たち一人一人をご覧になって語って下さるのではないでしょうか。

イエスの洗礼を思いつつ、自分の洗礼のことを思い、振り返り、新たに歩んでゆくことができます様に。そして神の御心に適う者となってゆくことができます様に。

日比野教会・八熊教会 古川 利雅 神父