年間第4主日(2022年1月30日 <ルカ 4・21-30>)

〔そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた〕イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

新年1月、最後の日曜日となりましたが、新年をいかがお過ごしでしょうか。昨年は日本軍の真珠湾奇襲80年に際し、日米開戦に至る真相をめぐって、マスコミでもかなり取り上げられました。それは80年がたち、当時のことに関わった方々がほとんど亡くなれたか、90才以上のご高齢になられ、当事者たちの立場もかなり過去のことになったので、今一度、真相を究明しておこうということもあったからでありましょう。ただ、日本で戦争というと米軍による日本本土爆撃とか、ソ連軍による満州や北方領土侵攻だけの印象を与え、それ以前に日本が東アジアや東南アジア地域を侵略し、現地でどのような加害を与えたかは余り扱っていないようなので、このあたりのことも現地の史実を検証しておかなければならないでしょう。

さて、前置きが長くなりましたが、今日の福音書は、イエスが育ち、ヨセフと大工仕事をされていた懐かしい故郷に戻ってこられ、会堂で手渡されたイザヤ書を朗読した後、話し始められた個所です。参加者の多くがナザレ出身のイエスを知っており、よそで名声を博した彼がどんな話をするのか注目していたでしょうし、よそでイエスがやっておられるという奇跡をここではどんなふうにパフォーマンスとして見せてくれるのか興味津々だったに違いありません。

ですが、イエスの話を感銘深く聞いていた聴衆、そして奇跡のパフォーマンスを心待ちにしていた会衆に対して、イエスが彼らを逆なでするような話に転じていったので、イエスを崖から突き落とそうとしたというのです。なぜ聴衆はそんな心境になったのでしょうか。一つは自分たちとかつて一緒にいたイエスがそのように感銘深く恵み深い話をする術、そして奇跡を行う技をどこで、いかに体得してきたのか妬ましく感じ、故郷に錦を飾るという歓迎を素直にできなかったこと、他には、心底ではイエスの語ることが真相だと感じながらも、聴衆にあてつけのように聞こえる話が気にいらなかったこともあるのでしょう。つまり、もっとおだて、鼓舞し、今日はこういう奇跡を見せてあげようという期待に反したからではないでしょうか。

人間の心は複雑ですね。おだてられ、称賛されれば機嫌がよいが、逆に隠しておきたい真相に触れられたり、明かされたり、非難されると、最悪の場合、金で決着をつけたり、殺人までしてしまう。

私たちの神はすべてご存じで、すべて明らかにすることがおできになるし、神がお創りになった事象に対しなんでもおできになると信じる心が必要だと思います。
しかし、神と人間との間がらはそうであっても、人間が他人に対してもの申すときは非常に繊細な心が要求されます。今日の第2朗読の有名な個所「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない、自慢しない、高ぶらない、失礼をせず、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、不義を喜ばず真実を喜ぶ・・・」この観点から総合的に話すことは本当に難しく、国家間、共同体間、宗教間、教派間、同じ教会の信者間ですら傷つけ、怒らせることがよく起こります。十字架によって不和の壁を破ってくださった慈しみに満ちたキリストを信じるものの間ですら、その反対のことを行っていれば宣教布教どころではありません。
周知の通り、フランシスコ教皇は2023年の第16回世界代表司教会議(シノドス)
通常総会に向けて世界の教会に「ともに歩む教会のため——交わり、参加、そして宣教」というテーマを定め、以下の質問を出しておられます。

1. 私(たち)は“共に歩んでいる”と感じたこと、体験したことがありますか?
教会では・・・、社会の中では・・・。
2. 共に歩むために大切なことは何ですか?また、共に歩むことを妨げることは何だと思いますか?
3. 私(教会)が共に歩んでこられなかった(こなかった)人々がいますか?なぜ、共に歩むことができなかったのでしょうか。
4. これから共に歩む教会になるために何が大切でどうすれば良いと思いますか?教会の中に共に歩むための力になる良いものがありますか?

以上の答えはこのパウロが説く具体的な愛をどのように実践しているかに応えることと並行していると思います。今日読まれる福音書の個所も、主イエスが実は愛の心からナザレの人々に語られたのに、残念ながら、そう受け取ってもらえなかったからでしょう。私たちも親・上司・親友などからの助言や叱責がその場で素直に受け入れられず、後になって分かるのと似ているのかもしれません。

最後に、「世界こども助けあいの日」にあたって、今現在の横のレベルで、健康・経済・心理面での子どもの格差、自殺してしまう子ども・子ども食堂を必要としている子どもたち、難民の子どもが親の薬代のために労働したり売春している現実、胎内の子どもを大人の都合で中絶している惨状。そして、世代間では地球温暖化に伴う異常気象・放射性物質を含め環境問題を後世に背負わせていることに真摯に向き合い、取り組まなければならないと思います。

 以上に述べたことは「罪深い私たち」であるかぎり、世の終わりまでの課題でありましょうが、そうであるがゆえにそれから脱却できる恵みを祈り、日々の、時には主イエスに真似ての犠牲を捧げる覚悟が大切だと思います。アーメン!
(2021年12月30日記)

<追記> この拙文をインターネットでお読みいただける方は、参考になりそうな資料や情報を以下のサイトでも個人的に発信しておりますので、参考にしていただければ嬉しいです。http://www6.plala.or.jp/pax-terao/
膳棚教会 寺尾 總一郎 神父