待降節第1主日(2020年11月29日 <マルコ 13・33-37>)

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

本日から典礼歴は新しい年度の待降節に入ります。そして、通常の暦では明後日の火曜日から本年最後の月になります。今年は新型コロナウイルスに振りまわされ、教会活動は公開ミサの中止や種々の教会行事も中止や規模縮小やオンライン中継などと異常な事態の期間があり、それがある分野では今も継続しております。そして、学校・医療・社会・政治・経済・エンタメ・日常生活の分野において甚大な影響がでており、自分自身・家族・だれでもいつ感染するか分からない情況下にあります。ワクチンの開発や効果的な治療法の確立が待望されますが、そのために人の遺伝子に関わることや治療法、ワクチン接種などは人間の尊厳に即したものであるべきでありましょう。

前置きが長くなってしまいましたが、待降節に戻りたいと思います。
キリスト教が「旧約時代」と称し、イスラエル民族が他民族の支配下にあった時代、旧約聖書のイザヤ書7章14節、9章6節やエレミア書23章5~6節やダニエル書9章25節、ゼカリヤ書9章9節以後などの預言書はメシア到来を待望するように預言していましたが、それがいつなのか、どのように出現するのかは分かりませんでした。まして、三位一体の一位の神である御子御自身がおとめマリアを母として人となって馬小屋で誕生し、イエス(ヨシア)と名付けるように天使から告げられるというようなことは想像できないことでした。しかもイエスの生涯は旧約時代のイスラエル民族が想定し期待していた政治的・軍事的指導者としてイスラエル民族の自治独立繁栄を回復してくれるようなイメージではなく、人間の根っこにある最大の不幸である「罪」からの解放を実現された、そういうメシア像とはズレがありました。そのメシア、イエスの到来の目的は十字架上の死によって成し遂げられました。これをメシアの初臨と呼ぶならば、今、私たちはメシアの再臨を待望する中間期に生きております。

生まれた時があれば、死ぬ時がくる、スポーツの試合・演劇・音楽会には開始があり、終わりがある。宇宙にも初めがあり、終りが来ます。この壮大な宇宙史と人類史の創造者である神はこれに意味をもたせ、目的を与えられました。それは、三位一体の神の愛・親密さ・慈しみ・憐れみ・偉大さを、神の似姿として創られた人間に永遠に浴させることでした。キリスト・イエスは人類を永遠の幸せに与らせる道筋をつける大事業を終えられ、今現在、時の流れはその完成に向かっており、それはメシアの再臨のときに成就します。そのときの様相はマタイ24:29-31、ルカ21:25-28、ヨハネの黙示録などに暗示されております。今のこの中間期がいつ終わるのか、分かりません、宇宙物理学などが予想するような宇宙や太陽系の終わりの時かもしれないし、それとは関係のない時かもしれません。だから、それがいつであってもよいように目を覚ましておくように本日読まれる福音書の個所が警告します。「目を覚ましていなさい」とは睡眠をとらずに徹夜していなさいということではなく、主イエスの再臨がいつであってもよいように「心構えをしておきなさい」ということでしょう。しかし、今現在の時期の私たちにとっては、主イエスの再臨の前に自分の死が先にくる確率のほうが非常に高いのではないでしょうか。現代は人生100年時代と言われますが、すべての人がそうではなく、不慮の死はいつ訪れるのか、本人にも分かりませんから、それにも備えておくべきでしょう。つまり、それがいつ来てもよいように、神のみ旨を実行するように心がけ、それができなかったり、背いたことに赦しを乞いながら生きるということではないでしょうか。

最後にミサの典礼文で主イエスの再臨の個所を拾い出して終わりたいと思います。

「栄光を帯びて再びこられるとき、今、私たちが信頼して ひたすら待ち望んでいることはすべて かなえられます」(待降節1の序唱)

「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」(全てのミサ典礼文)

「・・・栄光のうちに来られることを待ち望んで・・・・」(第4奉献文)

「私たちの希望 救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」(全てのミサ典礼文の副文)

「・・・再臨の日を待ち望みながら、・・・」((ゆるしの奉献文1)

「主が再び来られる日まで、あなたの偉大な愛のわざを告げ知らせ・・・・」(種々の機会のミサの奉献文1、2、3、4の記念と奉献)

「主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。」(ニケア・コンスタンティノポリス信条)

それでは2020年の主イエスのお誕生日が祝福に満たされますようにお祈り申し上げつつ。

<追記> この拙文をインターネットでお読みいただける方は、参考になりそうな資料や情報を以下のサイトでも個人的に発信しておりますので、参考にしていただければうれしいです。
http://www6.plala.or.jp/pax-terao/
膳棚教会 寺尾 總一郎 神父