待降節第2主日(2020年12月6日 <マルコ1・1-8 >)

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

クリスマスが近づいてきました。深い喜びと感謝をもってお迎えしたい祭日です。その準備期間(待降節)の第2主日の今日の福音に引用されている預言者イザヤの強烈な呼びかけが心に強く響いてきます。「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」と。私はイエズス様が示して下さる道を真っ直ぐに歩いているでしょうか。特にその道の中心となっている「隣人愛」の実践に励んでいるでしょうか。「愛の実践」はイエズス様の弟子の「身分証明書」とされています。「互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを皆が知ることになる」と。(ヨハネ13.35)ところで、互いに愛し合うことの範疇の中でも、特に守りがたい部分となっている「ゆるしあい」の道を真っ直ぐに歩いているでしょうか。使徒ペトロも、赦すことの難しさを痛感していたからでしょうか。ある時、イエズス様に「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。7回までですか。」という尋ねに対して、イエズス様のお答えは「7回どころか、7の70倍までゆるしなさい」と。(マタイ18.21-22)当時、7という数字は完璧さの象徴とされていたから、使徒ペトロは7回も赦せば、最善を尽くすことの結果と思っていたでしょうか。ところが、イエズス様は「70倍までゆるしなさい」と際限なく赦すことの必要性を明確に強調しておられます。確かに赦すことは難しいこともありましょう。その時イエズス様の次の忠告の言葉を思い出すようにしたいと思います。「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをおゆるしになる。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをおゆるしにならない」と。(マタイ6.14)
 やはり、神様からのゆるしは7回どころか7の70倍も必要とする私は、日々御助けを祈りながら、際限なく兄弟をゆるす者になりたいと思います。
金沢教会 ボンタッキョ・チプリアノ 神父