復活祭第6主日(2021年5月9日 <ヨハネ15・9-17>)

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

誰かに、「愛しているよ」という事をどう表現しますか。言葉で表す事と行動で表す事は違うではないでしょうか。そして、それを誰に言うか、表すかによっても違って来ると思います。恋人、友達、親子また神様によって違ってきます。恋人だったら、プレゼントや花をせっぷんをして愛を表すが、愛していることを感じさせるにはそういった形より難しいではないかと思います。友達同士でも、親子の間もそれは一緒だと思います。神様に対してではそれが違ってくると思います。
今日の御言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。これが私の掟である」。
愛という言葉はよく使われている言葉です。愛は皆が必要なものです、子供も年寄も、良い人も悪い人も、知恵ある者も愚かな者も、愛を表す沢山の本、雑誌、記事があります。映画、ドラマ、音楽、歌、物語もあります。人が愛をいただく事によって命をいただいたり、愛がないため命を失っていることもあります。家族がその素晴らしさを経験する中でも、家族が愛の事でばらばらになってしまうこともあります。その結果親子家庭、シンガル親、両親のない子にもなってしまう場合があります。正しい愛をいただく事によって良い道に入るか、それを正しくいただかないことによって、自分歩む道が迷ってしまう場合もあります。愛のために命を捧げて殉教者になったケースもあります。
ユダヤ人にとっては神を愛すると言うことは律法を守ることであって、キリスト者にとってはイエス様の教えによってその道を歩むことです。
今日の福音の言葉の中でイエス様が愛という言葉を何回も使います(9回)。聖書の中でも愛という言葉は大切な言葉になります。イエス様の教えの中で出てきた愛の言葉、行動の中の愛によって、沢山の人が、許しを願った方、罪人、歩みを変えたかった人がその道を歩むようになりました。私もキリストの道を歩むようになったのはその愛の言葉があったからだと思います。
イエス様が愛という言葉を色々な形で教えています。たとえば、あなたの敵を愛しなさい。(マタイ5:43-48)
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』(ルカ:10:27)
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。(ヨハネ15:13)
ギリシア後で、愛という言葉を四つの形で説明できます。それは、ストルゲ (στοργή storgē)、エロス (ἔρως érōs)、 フィリア (φιλία philia) とアガペ (ἀγάπη agápē)。
ストルゲ (στοργή storgē) の意味は親子の愛です。完全な愛には近いが、限りがあります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ49・15、16)。
エロス (ἔρως érōs) 恋人愛、夫婦の愛という意味になります。日本語にはこの言葉が悪く聞こえます(エロチック、エッチ)が、本当の意味ではそうでもない。家庭中、恋人中どれほど難しいものかよくわかりますし、自己中心、自分勝手に走って行く可能性が多いので、その結果愛する代わりに罪を犯してしまう可能性が高い。
フィリア (φιλία philia)、友達愛という意味になります。この愛は友達同士で行うことで、敵を愛することは出来ない。という事でこれも本当の愛に限りがあります。良いことをする人に良いことをすることだけでとどまります。
最後は、アガペ (ἀγάπη agápē) 神と人間の愛(人間は神の似姿で作られた者です)。
この愛には限りがない(無私の愛)イエス様が教えている愛はこれです。
互いに愛しなさいと言うことで三つのことを分かち合いたいです。
1. 「これが私の掟です」。
愛するように呼ばれている、してもしなくても良いのではなく戒めています。(命じることです)私たちは、神にとどまりたいならば、その使命に従わなければならない。キリスト者になるための基本になります。私たちには選べる権利はないのです。誰かに、愛している事を言葉で言うのは簡単かもしれないが、それを見せる、あるいは感じさせるのはとても難しいです。イエス様が敵をも愛するように言われています。どんなに難しい事でしょう。(敵を愛するようにと教えていますが、悪を愛するようにとは教えていません)
2. 「互いに愛し合いなさい」。
あなたが若いときに、元気なときに、都合がいいときに、きれいなときに、ハンサムなときに、怒っていないときに愛すると言うことではない。
結婚の約束は、順境においても、逆境においても、豊かな時も貧しい時も、病気の時も健康の時も互いに愛すると約束します。という事で限りがないことを示しています。
これをもっと理解するにはこの話が良いと思います。
入学のために、ある兄弟が学校に行ったところで、先生はこれらの兄弟に年齢と誕生日を尋ねて、彼らを登録フォームに入れようと思いました。 2人のうちの1人は次のように答えました。「私の誕生日は4月8日で、兄の誕生日は4月20日です。」 先生はそれを聞いて、それは不可能です。それに1人は「いいえ、それは本当です。 私たちの1人が養子です。」先生は、なるほど、どちらが養子ですかという質問に、1人はこう答えました。「それをお父さんに聞きましたが、お父さんは2人をも同じように愛するから誰が養子か知りません。」と答えていました。神様の愛もそのようなものではないでしょうか、それは無条件の愛です。
それは区別しません。
3. 「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」
自分が好きなように愛することでもないし、愛した人にお返しと言うことで愛することでもない。神様から頂いた愛を人に返すという愛です。人を愛することになるのは、まず私たちが神の愛を経験しているからです。あるお母さんがこう言われたことがあります。「神父様私は親から虐待を受けてきた者です。親の愛を一度も経験していない。そういう私はどうやって子供を愛することが出来ますか、教えてくださいと」。
そういう人こそ神を愛を経験した場合、愛することが出来ます。
私たちが十字架を見ると、垂直線、水平線があります。イエスが神の愛を経験して私たちのために十字架にかけられた事によって十字架が出来ています。だから私たちもイエスの愛を(神の愛)を経験して人々と分かち合うことによってその十字架に加われます。私たちが十字架を切るときもそれを思い出しましょう。
豊橋教会 ジュード・ピリスプッレ 神父