「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とはどういう意味でしょうか。様々な解釈があるでしょうが、一人一人が担う十字架がイエス・キリストが担っておられる十字架と連なっているという意味があることは確かでしょう。
イエス・キリストが担っておられる十字架とは何でしょうか。様々な側面から見つめることができると思いますが、様々ある意味の中でも大きなものとして、イエス・キリストは十字架においてアダムの全体を担っておられるというものがあるでしょう。
イエス・キリストの十字架は私たち人間の罪の全体を引き出し、受け止め、その上でゆるしの言葉を発しておられます。私たち人間が抱えている罪、暴力性を癒すために、本来裁き手である方が、人間によって裁かれることを引き受けられました。
聖書において「赦し」を意味する語の一つに、ナサーがあります(出32:32、34:7、詩32:1、イザヤ53:4, 12; 63:9, 他)。ナサーは「持ち上げる」、「担う」という意味がありますが、ある人の罪(負債)を持ち上げて取り去るということから「赦し」という意味になります。
聖土曜日の教会の祈り読書課第二朗読では、聖土曜日における古代の偉大な説教が読まれます。その中でイエス・キリストは十字架による死後、陰府に下り、アダムを引き上げることについて朗読されます。アダムを引き上げた後、典礼暦は復活、昇天へと続きます。アダムを担いながら、さらにはアダムの罪によって傷付いた被造世界全体を担いながらイエス・キリストは昇天し、栄光に入られます。
アダムを担うとはどういうことでしょうか。アダムが抱えている苦しみと問題性はどのようなものでしょうか。詩編103編には、神はどのように人を造るべきか知っておられながらあえて人を土の塵としてお造りになったという箇所があります。そのことの内に神の恵みと憐れみが溢れ出るからです。詩編103編では人が塵であることの特徴として、病に伏していること、他者から虐げられていること、そして何よりも罪びとであることを挙げています。私たち一人一人もアダムと連なるものとして、アダムの美しさと共に問題性、苦しみ、罪(いのちを傷つけること)を抱えています。
私たち一人一人が十字架を担うという時、イエス・キリストがアダムの全体を担っているように、私たち一人一人がアダムに連なっている者として、アダムの一部を自分の十字架として担うのです。それは、罪をも含めた自身が抱えているあらゆる苦しみを含むものです。
自分を捨て、というのは、自身の苦しみがありながらも、それを担いながらイエス・キリストに目を注げという意味ではないでしょうか。自身の苦しみを見つめることで心が塞がれ、立ち上がれなくなってしまうこともあるかもしれませんが、イエス・キリストはそれでも、その上でイエス・キリストに目を注ぎ、自身のアダムを引き受けながら私に従いなさいと呼び掛けておられます。キリストに目を向ける時、自分とは違った、他者のアダムの美しさと問題性、叫びに気付くかもしれません。その他者のアダムをもキリストが担っていることに目が開かれる時、自分の十字架を担って私に従いなさいということがどのようなものなのか知ることになるのでしょう。
イエス・キリストの十字架を見つめることは、神の愛の壮大さと豊かさに開かれています。自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス・キリストと共に歩む先は、いのちの躍動、喜びです。