律法学者を非難する・やもめの献金
今日の福音は、イエス様の公的生活が終わりに近づいた、エルサレムでの最後の1週間の出来事についてです。この箇所はマルコの福音書では、終末論、最後の晩餐、イエスの受難と復活の部分のすぐ前に出てきます。
ここでの「律法学者への非難」と「やもめの献金」に関するところは、今日の福音書の著者にとって、重要な点だったと考えられます。また、弟子たちにとっても、今を生きる私たちにとっても、この箇所は、自分の霊性さを磨く上で重要な教材となるものです。
この箇所を読むとき、イエスが「やもめの寛大さ」を褒める言葉に気が取られますが、ここでは、冒頭にある段落が気になります。イエスは次のように警告しておられます: 「律法学者に気をつけなさい。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
イエスの時代、未亡人になると、亡くなった夫の財産は律法学者が管理していました。そのため、横領や窃盗は珍しくありませんでした。未亡人たちは、自活する術もなく貧困に落ち入り、困り果てていました。にもかかわらず、彼女たちは、神殿への奉納を強いられたのです。神殿指導者から洗脳され、搾取されたわけです。悲しいことに、これが当時の宗教制度で、露骨な経済的搾取です。このようなことはイエスが福音書の中で最も軽蔑している偽善行為であります。だから、今日の朗読と前章「神殿から商人を追い出す」(マルコ11:15-19)を合わせると、イエス様のメッセージは、当時の宗教指導者たちに対する紛れもない怒りなのであります。
では、今日の朗読から、現代の私たちはどのような教訓を得ることができるでしょうか。
権力が人類にもたらした、また今も、もたらしている問題点について、私たちは、歴史と日々の情報を通して知ることができます。しかし、権力と富の蓄積への魅力は、人々が良識を見失うほどの中毒性があり、時には魅惑的なものなのです。
私たちはここで、イエスを誤解しているところに行き着きます。彼は自分を一番だと思ったことはありませんでした。イエスの使命は、決して力や権威のためではなく、人々が神に立ち返ることを望まれたのです。
福音書を見ると、洗礼に始まるすべての奇跡、そして復活まで、イエス様は決して一人ではありませんでした。彼は私たちと神との間に立って、正しく従順な御子として、父と共にすべてのことを行っていました。繰り返しますが、イエスはご自分がナンバーワンだとは、決して考えませんでした。彼は良き二番手でした。全ての事は、神のために、神とともに、神の名において行われたのです。
ここに真の弟子としての要因があります。私たちはイエスに従い、良き二番手になるのです。もし私たちの家族や地域社会や小教区、さらには政府にも良き二番手がもっと多くいたらと想像してみてください!
常に神とイエスを第一に考える人、これが真の弟子なのです。イエスは、最も弱い立場の人々や社会の片隅にいる人々の世話をする弟子たちを作りたいと望まれた ー これは明らかであります。弟子として、私たちは周りの困っている人々に気を配れているでしょうか?今日、私たちの社会にいる寡婦や孤児は誰なのでしょうか?高齢者?出稼ぎ労働者?孤独な人たち?若者?精神的・肉体的な病を抱えた人たち?
私たちが真の弟子としての道を歩み続けるにあたり、偽善や権力、富や貪欲への誘惑を避ける知恵の賜物を祈り求めましょう。また、ミサに与るとき、私たちは自分の王国ではなく、神の王国を築き上げるために身を投じていることを思い出しましょう。良き二番手として、私たちがすべての賜物の与え主である神にしっかりと目を向け、最も必要としている人々に分け与える責任、これを避けることがないよう祈りましょう。私たちが受けた賜物が何であれ、人類家族全体、とりわけ最も弱い立場にある人々や社会の片隅にいる人々を持ち上げるために、受け頂いた賜物が使われますように。