羊飼いたちは、「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」。それが羊飼いたちの目的だった。「この赤ん坊こそがわたしたちの救い主なんだよ」と。しかし、聞いた者のほとんどは、「羊飼いたちの話を不思議に思った」。目の前で無邪気に眠っている幼子を見ながら羊飼いたちの話を聞いても、まったくピンとはこなかった。旅の宿にある若い夫婦が、運悪く家畜小屋で出産を迎え、そのみどり児が飼い葉桶に眠っている光景は、たしかに印象的ではあるが、かといって、天使が現れて救い主の誕生を告げただの、ましてやこの目の前の赤ん坊がその救い主だなどと言われても、それも、どこの誰かもわからないような得体のしれない羊飼いの言うことを、まともに聞くことなど一体誰にできたであろう。
ところがマリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。
天使のお告げを受ける体験をしたマリアとて、まだその深い意味を十分に悟っていたとは言えないだろう。神の深い救いの神秘を、人間が容易に理解できるものではない。使徒言行録1章13節には、聖霊降臨を前に使徒たちと共に祈るイエスの母マリアの姿が描かれているが、マリアにとってもイエスを通して行われた神の救いを本当に理解しえたのは、聖霊を受けた後ということになると思われる。
それでも、羊飼いの話を聞いた時のマリアの反応は、出来事の奥に潜む神秘に十分注意を向けるよう、わたしたちを促している。この世界がすべて神による創造のわざの成果であるならば、世界のあらゆるところに神の限りないいつくしみが潜んでいる。神からのメッセージに注意深く耳を傾ける人、聖書を丹念に読み味わう人には、身のまわりの出来事の奥に救いの神秘を見分けることができるに違いないのだ。
イエスの宣教のスタイルは、町や村を歩き回って、会堂で教え、神の国の福音を告げ、病気の人や障害のある人、悪霊に取りつかれた人をいやし、罪人と言われる人々と交流した。イエスは「イスラエルの失われた羊」のところに遣わされたと自覚していたので、基本的には聖書の民を相手にしていたが、現代日本のわたしたちは、まったく宗教的な基盤の異なる人々の中で生きているので、「言葉」による宣教はイエスとは異なるアプローチを採らざるを得ない。しかし、「行い」については、救いを求めている人々のところへ赴き、悩み苦しむ人に寄り添い、その痛み苦しみからの解放に力を尽くすのは、今日もイエスの時代も変わらない。イエスの弟子たちも、二人ずつ組みで遣わされ、福音を告げるとともに、病をいやし、悪霊を追い出した。
わたしたちも同様に、苦しみながら救いを求めている人々のところへ、正義の実現を願っている人々のところへ赴かなくてはならない。
わたしは、宣教とはそのようなものと理解しているので、遣わされた地域(小教区)にある医療機関や福祉施設でのボランティアや学校教育への協力、また、平和運動や人権活動などの市民活動に関わりたいと考えている。それらの場所では、救いを求める人々、正義を求める人々と出会うことができるからだ。
たとえば、九条の会というグループがある。政治的な考え方が右寄りであろうと左寄りであろうと、日本国憲法前文にある、武力で国際的な問題の解決を図らないことを実現するための規定、第九条、戦争放棄と武力の放棄の規定を守ろうとするグループである。今は亡き大江健三郎さんや井上ひさしさん、加藤周一さんなど、日本の良心ともいうべき文化人たちが呼びかけ人となって発足すると、日本全国各地、さまざまな地域や職場などで次々と「〇〇九条の会」が立ち上がった。
わたしの経験から言えば、九条の会にカトリック教会の神父が参加すると、意外にもかなりの歓迎を受ける。当然、中には、宗教関係者を意味なく忌み嫌う人もいなくはないだろうが、ほとんどの人は、信頼のできる、世の中の良心とでも言うべき仲間として受け入れてくださる。そして一定の信頼を得たあかつきには、政治的な闘争の場のように考えている人々に交じって、キリスト者としての立場から、すべての人が尊厳をもつこと、真の社会変革は愛によらなければ成しえないことなどを語るとき、戸惑いながらも耳を傾けてくださるのである。
わが町の九条の会に参加してみると、そこに集まっているのはほとんどが高齢者である。先の戦争を体験した方々が、戦争は二度と起こしてはいけないと、残りの生涯をかけて反戦平和運動をしておられる。そして、高齢者のほかに目につくのは、若い母親たちだ。子どもたちの養育に懸命に取り組む中で、この子どもたちになんとか平和な未来を手渡したいと願う母親たちが、忙しい時間をやりくりしながら手弁当で活動をしている。そんな女性たちがわたしの口を通して語られるキリストの言葉に耳を傾けているのを目にするとき、羊飼いの言葉に耳を傾ける聖母マリアもこの女性のようだったのではないだろうか、もしかして目の前のこの女性は、救い主を世に送り出す現代のマリアなのではないだろうか、などと考えるのである。