十二月になるとわたしはいつも子供のころのことを思い出します。その時、待降節は喜びであふれるタイム、瞬間になりました。家族全員で仕事を分かち合います。子供たちは掃除すること、お父さんは馬小屋を作り、お母さんはいろいろなおいしいものを作ることになっていました。心の準備をしながら、自分自身の仕事を終わりまで喜びの内にやりました。すでにクリスマスの前からわたしたちはその降誕祭の喜びを味わうことができました。ですから、神様が喜びをもって来られることを知るだけではなく、それを感じて大切な経験になりました。
今日の福音の中で主の天使が聖ヨセフの夢に現れて二つの神様の命令を伝えました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と「マリアが産む子をイエスと名付けなさい」。聖ヨセフはその二つの命令通りにしました。マリアを迎え入れて、マリアが産む子をイエスと名付けました。正しい人であったので、神様の命令をよく行いました。わたしたちの場合はどうでしょうか。聖ヨセフのような人、正しい人、神様の命令・言葉をよく聞いて行う人になりましたか。あるいは、自分の意志だけをよく行うでしょうか
ある時、洗礼者ヨハネはこう言いました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」
「道を整え、道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネの言葉には、どんな意味があるのでしょうか。聖書の別のところで主イエスも同じことをおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」つまり、わたしたちキリスト者の道は主イエスご自身です。主エイスがなさったこと、それはわたしたちの道です。その道を歩まなければなりません。残念ですが、時々わたしたちは主イエスが教えられたことをよく知っていますが、それをあまり気にしません。神様が望んでおられることをよく分かっていますが、神の声を聞きません。神が隣人を愛するようにと命じられましたが、わたしたちは隣人を愛せずに憎んでしまいます。人をゆるしますようとに命じられましたが、わたしたちの心は人をあまりゆるしたくない心になってしまいます。正しい道をよく知っていますが、わたしたちはよく別の道・自分の道を選んでしまいます。
「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。つまり、神の救いを見ることができるように、自分自身の曲がった道をまっすぐにしましょう。自分自身のでこぼこの道を平らにしましょう。主イエスが教えられたとおりに生き続けましょう。隣人を愛しましょう。互いにゆるし合いましょう。正しい道を歩みましょう。これはわたしたちのクリスマスを迎える良い準備だと思います。そうすれば、神の救いを見ることができるに違いありません。
みなさん、降誕祭を待つ間にこの準備を大切にしましょう。神の救いを見ることができるように、正しい道を歩み続けることができるように、神からの恵みと助けとゆるしを絶えず願いましょう。