皆さん、赤い十字架、「赤十字」ってご存知でしょう。苦しみの中にいる者は、敵・味方関係なく救うことを目的として世界中の多くの国が参加している団体です。この赤十字を始めたアンリ・デュナン、アンリ・デュナンはアメリカの大統領トランプが欲しがっているノーベル平和賞の最初の受賞者でもありますが、今日の福音、「善きサマリア人」の喩えに押し出される形で国際赤十字を始められたそうです。しかも彼の墓には白い石で作った「善きサマリア人」の彫刻をもおいてあるらしいんですね。
アンリ・デュナンは両親の影響を強く受けたそうです。父はジュネーブ孤児収容所の局長で、お母様も同じ所で働きました。特に敬虔なクリスチャンであったお母様は、彼を連れて貧民街を定期的に訪問したり、大勢の孤児を自宅に招いたり、公私とも慈善活動に奉仕したそうです。
アンリ・デュナンは当時のことを、「私はわずかではありましたが、暗い裏町で家畜小屋を思わせるような住まいの中を支配する不幸と悲惨を知りました。我々の真の敵は、隣国ではなく、飢え・寒さ・貧しさ・無知・迷信・先入観であることを、そして個人がいかに無力かということも、そして、この恐ろしい貧窮を克服するためには、全人類が立ち向かわねばならないということを理解したのです」と述べております。
不幸と悲惨さを放置するこの世の生き様。彼は、幼いときから、困った人の立場から物事を見る力を養っていたわけです。そして、戦火の中で、敵・味方に関係なく、怪我をしている人であるなら誰にでも駆け寄る人になったわけです。
今日の福音、アンリ・デュナンの生涯の支えとなった「良きサマリア人」のたとえ話です。あまりにも有名な話です。ただ有名だというだけでなく、イエス様の教えの中で最も大切なことが示されているような気もいたします。それは人を大切にするのに、「どこまで」という範囲はないということです。
旧約聖書の中にも、隣人愛の掟がありました。この隣人愛の掟が最も大切な掟であることをイエス様の時代の宗教の先生たちも分かっておりました。けれども、ユダヤ人である彼らはその隣人愛の掟を限られた範囲の人だけのことを指していると考えておりました。同じユダヤ人は隣人で、サマリア人は隣人ではない。そもそも「隣人」という言葉は「隣の人」「近くにいる人」の意味ですから、どこまでが隣人か、もちろんすべての人ではないと考えておりました。だから今日のイエス様の話の相手である律法学者は「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねたわけです。
「わたしの隣人とは誰ですか」。それに対して、イエス様は、「隣人とはこういう人だ」とは話さず、「誰がこの人の隣人になったと思うか」と、逆にお尋ねになられます。まるで、私たちは困っている人に手を差し伸べることを通してすべての人の隣人となることができる、これが隣人愛の意味だといわんばかりに…。
「困っている人に手を差し伸べることで全ての人の隣人となる」。なぜイエス様はそうおっしゃったんでしょう。それはイエス様の信じていた神様、イエス様がアッバ(おとうさん)と呼んだ方がまさにそういう方であったからです。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)、だれをも分け隔てなく、すべての人を大切にしてくださる方。だから私たちが人を大切にする時も、そこには範囲の限界がない。すべての人が兄弟姉妹であり、だれをも隣人として大切にしなければいけない。これがイエス様の教えであるわけです。
「わたしの隣人とは誰ですか」。律法学者は、自分が困った時、誰かに助けてもらった経験があまりなかったかも知れません。そういった意味で今日の福音を、強盗に襲われた人の立場で読むと本当に分かりやすくなります。イエス様は律法学者に「誰が襲われた人の隣人になったか」と尋ねられました。律法学者は「その人を助けた人です」としか言いようがありません。「隣人を自分のように愛しなさい」ということは、敵・味方に関係なく、困った人に駆け寄って、「その人の隣人になる」ことが求められているわけです。
医者が患者の立場で考えること、教師が生徒の立場で考えること、非常に大切なことなんでしょうね。困っている人、弱っている人の立場でものを考えることができないと、困っている人に、弱っている人に駆け寄ることはできないでしょうね。困っている人の、弱っている人の立場から物事を見る目を通して入ってきた情報だけが、自分を動かし、駆け寄る行為を引き起こすことが出来るんでしょうね。
医療の世界に「善きサマリア人法、Good Samaritan laws)」というものがあります。「善きサマリア人法」とは、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗しても結果責任を問われない」という趣旨の法であります。有り難い法ではないかなと思います。
今日の福音の中に「憐れに思い」という言葉がありました。聖書において、憐れに思うこと、ギリシア語では「スプランクニゾマイ」と言います。昔、神学校の授業で「このスプランクニゾマイという言葉が使われるのはイエス様の愛を示す場面に限られている」と教わりました。善きサマリア人の喩え話を語られたイエス様の眼差し、その眼差しは困っている人の立場から世界を見る眼差しです。善きサマリア人の喩え話を語られたイエス様は本当の善きサマリア人でありました。イエス様こそ、困っている人の目線から見て、憐れに思い、駆け寄って、救いの手を差し伸べてくださる方です。そのイエス様と比べて私は、私たちは自分の好きな人だけを愛して、それで良しとする自己正当化の罠に捕らわれているのかも知れません。それでもイエス様は、自分の好きな人だけを愛して、それで良しと自己正当化しながら生きる私たちに、憐れみの心をもって駆け寄ってくださいます。
「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)、そのイエス様に出会った喜びに感謝しながら、また、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様のことばに「はい」と答えながら信仰の道を歩んで参りましょう。