今日の福音は、祈りがテーマになっています。前半は(1-4)は、毎日、私たちが唱えている「主の祈り」、後半(5-13)は祈りのたとえです。これは、「気を落とさず絶えず祈らなければならない」ことを説いた「やもめと裁判官」のたとえ(ルカ18・1-8)によく似ています。
ところで、「主の祈り」はマタイにもありますが、コンテキストが違います。マタイ(6・9-13)では、くどくど祈る異邦人のようにではなく、神に信頼し単純に短く祈るようにと、その模範として、この祈りが弟子たちに教えられています。ルカでは逆で、弟子の方から「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」(1)と頼み、それに応える形で、この祈りが与えられています。なぜ頼んだかというと、イエスの「祈りが終わると」とあるので、イエスの祈る姿を見て、同じように祈りたいと思ったからではないでしょうか。
ところで、「主の祈り」の特徴はどこにあるのでしょう。称名念仏、お題目など、短い祈りに親しんできた日本人にとっては、「主の祈り」でもまだ長すぎると感じるかもしれません。けれども、内容を見ると、どうでしょうか。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」(2)と、まず神さまのことが最初に来ています。マタイでは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と続きます。これは、日本人が考えている祈りとは真逆ではないでしょうか。祈りとは、自分の望みが実現するよう神に願うことと捉えられていないでしょうか。
ところがここでは、神さまの名が崇められ、神の国が来ますようにと祈るのです。人の思いではなく、神さまの思いが第一に来ているのです。そしてその後に、「私たちに必要な糧を毎日与えてください」(3)と、私たちに関する事柄が来ます。この糧が、身体だけでなく、心や霊の糧を指していることは言うまでもありません。そして罪の赦しを願い、誘惑から救ってくださるように(4)と続きます。
後半のたとえでは、ある人が真夜中に友だちのところに行き、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友だちが私のところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです」(5-6)と、助けを乞うています。その友は始めは断っていますが、「しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう」(8)と。「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(9)。
たしかに人間同士の場合、何かをしつように頼んで来る人には、うんざりし、根負けしてしまうことがあります。またキリストが言うように、親は魚を欲しがる子供には魚を、卵を欲しがる子供には卵を与えます。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(13)のです。神さまも同じなのでしょうか。駄々をこねる子供のように、あれがほしい、これがほしいと言い続ければ、何でも望みをかなえてくれるのでしょうか。
これに対しては、ノーと言わざるを得ないでしょう。なぜなら、「主の祈り」にあるように、自分の望みではなく、神の望みが実現するようにと祈らなくてはならないからです。それに人間にとって何が本当に「良い物」かを、だれが知っているのでしょう。イエスさまは、それは聖霊だとおっしゃっています。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13)と。
「聖霊よりは、お金がほしい。名誉や地位がほしい」と言う人もいるでしょう。「健康が、若さや美しさがほしい」と願う人もいるでしょう。しかし、それらはみなこの世のものであり、いつかは過ぎ去っていくものです。求めるべきもの、それは永遠のものです。ですから、求めて与えられるのは永遠の命であり、探して見つかるのは永遠の真理、たたいて開かれるのは永遠への道だということになります。そして、このために何よりも必要なのは、聖霊ではないでしょうか。ちなみに十字架の聖ヨハネは、真夜中に与えられる三つのパンは対神徳だとしています。ひたすら神のみに信頼し、神のみを愛し、神のみに希望していくことができるよう、聖霊の助けを願っていきましょう。