今日の福音のお話は、イエスの元に集まった群集の多くは、神の国を求め、救いをもたらす偉大なラビ(先生)が現れたと思い皆がその言葉に耳を傾けている中で、この群衆の中のある一人が少々的外れなお願いをしているようであります。
自分が今気になっている事について、そしてその考え方は正しい、自分にとって当然のことではないか、と思っている事についてイエスに賛同を求め、なおかつ自分の思いがかなうよう、取り計らってくれる事を願って、「先生、わたしにも遺産をわけてくれるように兄弟に言ってください。」と云いました。
おそらくこの人は、二男か三男で、父親の遺産をほんの僅かか、或いは全くもらえなかったのかもしれません。と云うのも当時のユダヤ社会の決まりには、長男が遺産を受け継ぐ権利があったようでありました。日本でも昔は、いつの時代だったかはわかりませんが、家督(田地田畑)は長男が受け継ぐと言うことだったようでありました。
遺産相続の問題は、今も昔も、そして洋の東西に関わらずあるものであります。
また、当時のユダヤ社会では政治と宗教が渾然一体となっていたため、いわゆるラビと呼ばれる律法学者が、今で言う民事の調停役をしたり、時には裁判官の役割もしていたようであります。ですからあの時神様の正義を述べ伝え、時には癒しの奇跡も行うイエスに彼は相談したのでした。イエスを普通の律法学者として考えるなら、彼の相談事はうなづけます。
ですがイエスは彼の願いには触れず、「誰がわたしを、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか。」と一見冷たくあしらってしまわれました。しかしその後、人々に貪欲についての注意をたとえ話で以って、諭して下さいました。
貪欲についてはこの場合、彼の兄の、遺産を独り占めにした貪欲に就いて云っているのか、または、彼本人の、少しは遺産を分けてもらったがもっともらって当然だと言う貪欲なのかは、特定できません。おそらく「どんな貪欲にも」とありますから、両方の貪欲についてでしょう。
さて、現代人の私達は、時々群集の一人、彼のような考えで言動することがあります。自分の利益になることだけに固執して、自分の考えに賛同する人だけに相談をする。あるいは、賛同する人を探し回る。時には相談した相手が自分の考えに賛同しない場合、その相手を避けたり毛嫌いすることをしてしまいます。これは、私達が知らず知らず持つ貪欲によって、基本的な神様の教えであるところの隣人を愛する事、それができなくなる結果であります。
古代の人も、科学技術の発達した現代社会に生きる人も、「もっと良い暮らしがしたい」と誰もが思っていると思います。幸せになりたい、幸せに暮らしたいと思うのは万人共通の望みでしょう。
神様は、私達一人一人が思っている以上に、人間一人一人が幸せになってほしい、幸せに暮らしてほしいと思われているに違いないことを、私達の信仰で知っています。
現代科学が発達したと言えども、天候を人間の意のままにはできません。天候の不順が続けば食糧危機が来ます。やがては人類滅亡にもつながるでしょう。この様に人間の命も神様の配慮なしにはいきてゆけません。個々の命も神様の配慮なしには維持できないでしょう。
この様に考えると、私達は神様の恵みなしには生きてゆけない。そして今、神様の恵みの真っ只中に居ることにも気づかねばならないと思います。にもかかわらず人は自分自身の思い、考えにとらわれてしまいがちであります。自分でも気づかない貪欲が私の思いを、私の心を支配しないよう用心せねばならないと思います。そして今日の御言葉の最後にある「神の前に豊かになること」とは、たとえ今は本当に苦しい状況にあったとしても、神様の恵みの真っ只中に居る自分を見失わないこと、それは全ての配慮に対しての神様への感謝であり、神様に自分の全てをゆだねることであり、それが私達の信仰者の生き方ではないかと思います。