今日の聖書の朗読は、とりわけ平和というテーマについて深く考えるよう私たちを促しています。第一朗読では、預言したエレミヤが、役人たちとゼデキヤ王自身から拒絶され、水がなく泥がたまっていた水溜めに投げ込まれ、餓死させられる様子が描かれています。これは、役人たちが、エレミヤについて、「民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです」と非難したためです。しかし、エレミヤは、主の命令に従って、カルデア人との戦いで降伏するよう民に勧告するという使命を果たしていただけなのです。真の勝利と平和は主によって与えられるからです。
平和というテーマはルカによる福音書にも記されています。イエスは地上に火を投ずるために来たと語り、平和ではなく分裂をもたらしました。イエスのこの言葉は確かに説明が必要です。なぜなら、それは聞き手だけでなく、私たち自身も少なからず驚かされるからです。イエスの言葉は何を意味していたのでしょうか?そこには何か深い意味が隠されているのでしょうか?もしそうなら、それは何でしょうか?
まことの平和は人間の務めによるものではなく、キリストがもたらすものであるということです。それは、人となられたキリストが受難と復活を通して闇の勢力を打ち破り、私たちを天の父と和解させてくださったということです。キリストに従う人たちが多くの逆境に耐えなければならない時代でもあります。そして、一人ひとりがキリストに従うことを自ら決断しなければならない時代です。キリストなしに地上に平和はありません。平和とは、意見の一致、戦争がない状態を意味するものだけではなく、平和とは、人と神との和解を意味するものです。キリストが仲介するのは、まさにこの和解です。それ以外の平和はすべて部分的で一時的なものであり、そして偽物であるかもしれません。
私たちが生きている時代は、不安定さもありますが、キリストの平和の証しは広がり、実を結んでいます。キリストの教会の証しは、しばしば人間的な弱い部分が含まれていても、歴史を通してあらゆる国々に広まっています。こうして、キリストの解放と平和、また神の救いと永遠の命への希望が伝えられています。
さらに、暗闇との戦い方についても指示されています。使徒パウロは第二朗読の中では、何よりもまず「罪の重荷」を捨て、競争を忍耐強く走り続けるべきだと言っています。真の平和に導く第一ステップなのです。
それでは、平和が自分自身にとって何を意味するのかを改めて考えてみましょう。私たちは家庭、社会、そして世界における平和を心から願っています。神様もまた、私たちを平和へと招いておられます。預言者エレミヤの時代も、神の御子がこの世に来られた時も、それは同じでした。今日の聖書朗読は、平和を信仰の目で見つめ、キリスト教徒として人々と分かち合い、神からの賜物として捉えるよう、私たちを招いています。忍耐強く、そしてたゆむことなく、キリストの平和に与りましょう。