Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第21主日説教

2025年08月17日

福音箇所 ルカ 13・22-30

そのとき、イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

メッセージ

担当者 刈谷教会 ホー・ショウフェン

年間第21主日の福音書の中で見られる、ある人の質問に対するイエス様の答え、特に狭い戸口から入るように努めなさいと言う御言葉を聞くと、頭の中で「狭き門」と言う慣用句とか、或いは、20世紀の初めのフランスの小説家であるジッドの小説「狭き門」などが浮かび上がってくる方々もおられるかもそれません。ます。いずれも、狭い戸口、マタイによる福音書では狭い門というイエス様の教えに由来していると思われます。現代社会において、狭き門と言う言葉は、競争が激しくて入学とか、就職が難しいことに対しても使われているようです。ところで、使徒パウロもキリスト者が皆、競技場で朽ちることのない冠のために走りなさいとコリントの信徒への手紙の中で教えられます。キリスト者である私たちの間にも、信仰に最もふさわしい生き方を身につけて、福音を最もふさわしいものとして伝えるために、祈りとか、愛の業の実践とか、節制などのような競争が求められるでしょう。競争ですから、疲れます。けれども、与えられた力、限られている能力を持って、神様の愛に応えて、信仰にいきるならば、第二朗読にも書かれているように、私たちも鍛たえ上げられた人になれると確信しています。神の国に入るためには、神様から与えられたさまざまな鍛錬や試練を受ける必要もあるということを改めて、感じさせられます。現在の世界に起きている戦争や紛争の苦しみ、恐怖とか、感染症の不安などは、私たちの試練であると考えられるでしょう。そこで、忘れてはいけないのは、やはり、如何なる鍛錬や試練でも、一人でそれを受けるのではなく、イエス様と共に、そして、教会に属する共同体の仲間がおられて、共に困難や試練を乗り越えていくために、支え合いながら、助け合いながら、生きていると言うことだと思います。そうすると、狭い戸口でも、愛し合いながら、譲り合いながら、その戸口を通ることができるのではないでしょうか。
神の国に入るため、このたとえ話をとおして、ある程度の警告も語っておられます。それは、イエス様と共に食事したり、食卓に与ったりしたことのあるものが皆必ずしも、神の国の宴会に入るとは限らないと言うことです。つまり、イエス様の話しや教えに耳を傾けたり、共に主キリストと一緒に食事したりしたこともあるけれども、神の国の外に閉じ込められて、神の国に入らないことが十分ありますよとイエス様は警告してくださいます。福音書によると、外に投げ出されて、神の国に入らないものが、単なる教えを聞くだけで、その教えを実践していないものであると言うことも私たちはよく理解することができます。間違いなく、私たちも、主の食卓によく与って、イエス様の教えを良く聞きます。けれども、行いがなければ、或いは、神様の前で不義を行うものとなるならば、神の国には入れないということを再認識して、なるべく早めに神の国に入るのにふさわしい行いをするようにしなければならないでしょう。それもこの福音書から読み取れる私たちに対するイエス様の思いとか望みだと思います。
 神様のお望みにかなう信仰生活を送り続けていくように。アーメン。