Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第27主日

2025年10月05日

福音箇所 ルカ 17・5-10

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

メッセージ

担当者 南山教会 ウィルフィード・リンガアマ・クロメン

日本の文化において、私たちは「武士道」という概念を知っていると思います。これは日本の社会の労働倫理に適用され、世代から世代へと受け継がれてきました。この概念には深い意味があり、仕事に対する忠誠心と献身を指します。この原則は、仕事を愛し、仕事に対する忠誠心と献身を高く持つことを教えてくれます。したがって、与えられた任務が何であれ、それを熱心に、責任を持って、名誉と全力を尽くして遂行すべきです。では、この原則を、イエスの弟子としての信仰との関係において、どのように実践すればよいのでしょうか。
今日のルカによる福音書の中で、イエスは信仰を持つことの重要性と、信仰によって何ができるかを説明しています。弟子たちの「私たちの信仰を増してください」という願いに対して、イエスはしもべの役割を、イエスの弟子たちの信仰の模範として示しました。イエスにとって、信仰は量ではなく質によって測られるのです。つまり、信仰は大きいか小さいか、少ないか多いかという問題ではなく、日々の生活においてなすべきことを高い献身をもって忠実に実行することなのです。信仰は、神と隣人への奉仕と敬意の表れとして、日々の仕事と自身の責任の中に示されなければなりません。これこそが、私たちの日常生活の中で追求すべき真の信仰の意味なのではないかと思います。
イエスの弟子として、私たちはそれぞれ与えられている召命に対して、誠実で忠実な僕として信仰を持つように召されています。物理的に大きな信仰を持つ必要はなく、日本の文化が勤勉さと謙虚さを尊ぶように、誠実で一貫した信仰こそが驚くべき良い影響をもたらすのです。神の僕として、私たちは称賛を求めず、謙虚に献身的に務めを果たすよう戒められています。それがキリストに従う者としての召命の一部だからです。日々の務めを遂行しながら、この神の言葉を心に刻み、深く思いを巡らせましょう。