Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第28主日

2025年10月12日

福音箇所 ルカ 17・11-19

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

メッセージ

担当者 アーノルド・プルム神父(瑞浪教会)

十月が美しい月なので、カトリック信者はマリアさまにこの月をささげます。ロザリオの月とも云われます。伝統的に五月も十月と同じくマリアの月と呼びます。気候のいい日々が多いからです。また、ブラジル人の心が本日の十月十二日をアパレシーダ聖母の祝日として行うのです。1717年に川の中の聖母の御像が船に乗る漁師に現れたからです。またそこで、この日を子供の日として行います。聖母マリアが子供を見守るように祈りをささげます。
さて、本日の聖書の言葉は、第一朗読では外国人ナアマンにおいていのちを寛大に大切する神を示し、父なる神が邦人や異邦人を問わず、すべての人を愛し、支えてくださること、すべての人に救いと無事を語ります。このナアマンから学ぶのは、まことに私たちも単純の方法で簡単に上から恵みを受けるので、感謝と喜びに溢れる心を神にも相互にもささげることです。幸せを求めると共に、与えられた恵みに生きる心を養い、感謝します。そこで、神様に感謝の心を一番先にささげるのは人の勤めです。父なる神が毎朝、新しい希望と光を注ぎ、昼中見守ってくださり、悩みや苦しみがあっても平安に導くからです。
第二朗読は主キリストに生きる使徒パウロを仰ぎ見て、信仰に生きる心を示します。口先だけではなく、理想を目指して信仰の道を歩むことを示し、人生は多く闘いのものですが、キリストの道は光です。イエスは死を経て復活されたからです。使徒パウロがテモテに知らせた通りです。「私たちは、キリストと共に死んだのだから、キリストと共に生きるようになる。」(2テモテ2:11) この事実をいつも心の目の前にあって、今日も喜びと感謝を見出し、希望を光のうちに分かち合いましょす。2025年の聖年のテーマも希望です。
福音書は邦人のユダヤ人にも、異邦人のサマリア人にも、救いと無事を与える喜びの言葉です。しかし、イエスはユダヤとガリラヤとがサマリアに対して差別している対立を知り、それを超えて広い心で迎えます。一言でいうと、宗教的な問題で相違があったので、南のユダヤと北のガリラヤは間のサマリアを外国として扱ったのです。イエスがそれを知りながらも平気にその地方を通ったばかりか、福音書はこのサマリアを高く評価するほど、「サマリアの女」(ヨハネ4:1-43)や「よきサマリア人」(ルカ10:25-37)の話を取り上げます。また、本日の箇所で、感謝を知って戻った人も外国のサマリア人だけでした。この話から、私たちが、たとえば難民の問題、弱い立場にいる人を思い、すべての国の人に心を広げて迎えることができますように勤めるべきです。あまねく世界に神が父となっているからです。イエスが神を父と呼ぶように教えたことは深く心に刻んでいきましょう。
繰り返してみますと、第一朗読で課題になったシリアのナアマンはたくさん恵みを受け、感謝する人の模範です。神はすべての人を愛し、人が生まれた国と所を問わず、宇宙万物を大切にします。教皇フランシスコが「Laudato-si」の中で伝えたように、一つの創造、一つの世界、唯一の神である父を忘れずに、本日のナアマンとサマリア人のことで、すべてを大切に生きながら、感謝する心を学びましょう。ミサは「感謝の祭儀」なのです。日曜日の「感謝の祭儀」を通して、御言葉を聞き、ともに感謝の祈りを果たし、心を豊かにします。