Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第31主日

2025年11月02日

福音箇所 ルカ 19: 1-10 

 そのとき、イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

メッセージ

担当者 聖心布教会 根田健二神父

 その時代、徴税人といえばパレスチナ人の中で最も嫌われている存在でした。当時パレスチナはローマの植民地下にあり、徴税人はローマ政府に支えていたため、裏切り者とみなされていたからです。その頃のローマの税制度では、地域ごとに課税額が割り当てられていて、税金回収の権利は、一番高い金額で入札した人に、売り渡されていました。回収された税金はローマが要求額分を受け取り、超過分は徴税人の懐に入っていたのです。徴税人たちはこの制度を悪用し、それが横行していました。
今日の福音は、交通の要衝であったエリコで起きた出来事です。この町は広大なヤシ林やバルサムの林、バラ園に恵まれていたため、多くの人々が集まり物々交換の商いをする重要な場所でした。ですから、当時エリコはパレスチナで最も豊かな町の一つだったのです。福音の中心人物ザアカイは、この地の税収の責任者であり、職業上、最高峰に登り詰めた人物でもあり、某大な冨を築いていました。しかし、徴税人であるがゆえ、彼はその地域の人々に最も嫌われていたと思われます。ザアカイは、社会から疎外され、孤独で不幸な人でした。ですから彼は、徴税人や罪人でさえも受け入れると知られていたイエスに会いたかったのです。
 ザアカイは社会的に見下されていましたが、彼にはいくつかの並外れた長所がありました。まず、彼の勇気です。「イエスに会いたい」と思う勇気は立派で、賞賛に値するものです。なぜなら、徴税人が、護衛人なしで人前に現れるのは危険なことでした。そして、背が低い彼は、イエスより先に走り、木に登ってイエスを一目見ようと試みました。
イエスの温かい友情はザアカイの心を深く動かしました。そして彼はイエスに応えて勇気を振り絞って、過去の過ちを公に告白しました、自分が騙した人たちへの賠償を行い、財産の半分を貧しい人々に与える約束をしたのです。こうして彼は「自分が改心した人間である」ことを周りの人々に示す新しい一歩を踏み出したのです。
おそらくこれが今日の福音の教えの核心でしょう。価値ある証言にはそれを真実と証明する行いが伴います。イエスが求めておられるのは、「行動を起こし、私たちが人間として成長していくこと」であります。価値ある証言とは、それを証明する行いがあってこそ、その証言が価値あるものとなります。
 前教皇フランシスコは、この福音の箇所を思索する中で、独自の「教皇職の核心的テーマ」を想起されたのであります。それは、知られる人ぞ知る、実は「教会を蝕む病は、聖職者主義にある」と結論され、想起されたこのテーマに立ち向かわれたのです。ご存知かと思いますが、聖職主義(聖職者主義)・クレリカリズムとは、教会内における聖職者の信徒への権力の行使と過度な影響力の行使を指します。これがしばしば、上下関係や年功序列を重視する思考パターンを生み、ひいては「司祭と信徒間に隔たりを作ってしまいます。また、信徒間でも古い信徒と新しい信徒との間の上下関係的な見方・考え方が互いのギャップを生み出しています。これらは現在教会が直面している大きな課題であります。教皇フランシスコは、このようなあり方を「病」と呼び, 「教会の使命と神との関係を損なうものである」と指摘されました。それ故、前教皇は、一貫してこのクレリカリズムを批判してきました。
 この問題に関しては、すでに無数の記事等が発行され、数多くのワークショップ・研修会・勉強会・講演などを行う機会が設けられてきました。しかし、このような現実・傾向を変えようと真剣・前向きに努力してきた人は、果たしてどれほどいるのでしょうか。
 今日私たち皆、ザアカイの改心から深い学びを得ています。過去の過ちを償おうと多くのエネルギーを費やすことよりも、ザアカイのように自分が人間として変わることに大きな価値があるのです。課題、「クレリカリズムの病」に戻りますが、これを克服する唯一の道として、教皇フランシスコは、次のように陳述されました。まず第一に「信徒と聖職者の双方が謙虚であること」。次に「包摂性豊かであること」。すなわち、多様な個人個々を受け入れる心の広さと、そのような教会であるベきだということ。そして、「奉仕の精神をもつリーダーシップのニーズ」。これらに焦点を当てることの重要さを強調されました。
 実に考えさせられる警告であります。ですから、私たちはこれを念頭に置き、手を取り合って希望ある教会建設に努力できますように。