Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

待降節第1主日

2025年11月30日

福音箇所 マタイ24・37-44

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

メッセージ

担当者 神言修道会 暮林 響神父様

あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」

 待降節にこの聖句ピッタリの物語といえば、もしかしたらチャールズ・ディケンズの『クリスマスキャロル』を挙げる人もいると思いますが、何と言っても次の二冊は断突でしょう。トルストイの《くつやのマルチン》というタイトルでおなじみの『愛あるところに神あり』、そして映画『四人目の賢者』で知られるヘンリー・ヴァン・ダイクの『もうひとりのはかせ』です。
物語は、想像力を働かせながら人の本質に様々な問いかけをします。子ども向けのお話で絵本でも手に入れることができますし、インターネットでもいくつものバージョンでお話を掲載しているサイトに出会えるので、子どもに見せたり語り聞かせたりすることを口実に、クリスマスを迎える前にこうしたお話に触れるのは魂にとって良いことです。
メッセージは極めて単純です。イエス様に会いたい、という心がほんものであるならば、イエス様が心を配る人々に自分の心が向かい、そうした人々、つまり弱っている人、困っている人、救いを必要としている人、温かい一言や更生のヒントを求めている人に親切になれるはずだということ。そしてこうして親切にした小さな人々の一人ひとりのうちにキリストがいるのだから、思いがけない時に、思いがけないところで出会う主をおもてなしできるように、いつでも用意していましょう、そういう呼びかけです。   
目立つか目立たないかとか、はずかしいとか、人からほめられると困るとか、そういった考えは、雑念以外の何物でもありません。尻込みしている間に、本当に愛を向けるようにと主に促された人に対する愛の奉仕の機会を取りこぼしていくことになるのですから、どこにでも主がおられ、だれの中でも主へのおもてなしができることを思い出して、日々の徳の花を摘んでいけますように、と思います。
こうした待降節の善行の実践には、二面性があると思います。一つは、上述のように、主が小さな人々の中にいらっしゃるので、おもてなしの心で善行を行う、という面。もう一つは、主が救いを求める人に救いの手を差し伸べに来てくださる。そのために主はお一人ではなさりたがらず、主の声に聞き従う人たちの協力を必要としており、開かれた心を持った信者の手を通して、その救いの手を差し伸べられる、という面です。
 最近は、イオンのようなショッピングモールに組み込まれているカフェランテやカルディにも、大きな駅のデパートにも、「アドベント・カレンダー」がいろいろな種類で並ぶようになりました。小生が子どもの頃は、親がヨーロッパ巡礼でお世話になったホームステイの家族が送ってくれるチョコレートのアドベント・カレンダーしかなく、市販で手に入るものは見たことがありませんでしたが、今は、割と簡単に手に入ります。アマゾンでも手に入ります。中にはおもちゃボックスや、高級紅茶や高級お菓子のとんでもない高価なものもあって、そんなに高いならチャリティ募金に回したほうがいいのでは、と思ってしまうほどのものまであります。まぁしかし、多少の自分へのご褒美を考えてもいいとも思います。幼稚かもしれませんが、それでも何もしないよりは、意識してアドベントの姿勢を保つのは、知恵だと思うからです。ただ忘れてならないのは、アドベント・カレンダーは、そのクリスマスを迎える日までの毎日、何らかの徳の花を摘んだら(つまりだれかを喜ばせることで神様を喜ばせることに成功したら)、その日の扉を開いてチョコレートを食べてもいい、というルールがあります。少なくとも我が家ではそうでした。
クリスマスを迎える気分を上げていくのなら、その本質、主が救いをもたらしに日々我々を訪れている、主がだれかに救いをもたらすためにわたしたちの協力を求めている、そうしたことを日々思い出し、毎日を救いの訪れの出来事で満たしていくようにしたいものです。それがアドベント・カレンダーの扉を開けていくことになっているのだ、ということを思い出したいと思います。そして、クリスマスを迎える日には、アドベント・カレンダーの扉とともに、人々の心に天国の扉を少なくとも24枚は開いたことになっているのなら、それは本当に素敵なことです。
 あるいは、はじめはアドベント・カレンダーの扉を開けるために奉仕を意識していたところから、いつの間にか主とともに実現する人々への奉仕のわざにのめり込むあまり、気づいたらアドベント・カレンダーの扉を開くのを忘れて数日たってしまった、そんなうっかりがあってもいいのでは、とむしろ思います。そうやって愛と奉仕の生活にふけっているうちに、気づいたらクリスマスも過ぎてしまい、いつの間にか愛の奉仕をしながら次の待降節を迎えてしまった、そんな生き方も素敵でしょう。そうやって、もはやアドベント・カレンダーの扉ではなく、天国の扉が自分の周りにたくさん開いていることにいつの間にか気づくことになることこそ、クリスマスを祝う準備、アドベントの季節を始めるということの本来の意味なのではないでしょうか。