待降節第三主日のテーマは「主は近い、喜べ」です。伝統的に喜びの主日と呼ばれます。昔は、救い主の訪れが近いことを喜ぶ象徴として、司祭はバラ色の祭服を身に着けました。
第一朗読のイザヤ書は「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ、裁くよ、喜び、花を咲かせよ、野バラの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声を上げよ」と歌います。
第二朗読の使徒ヤコブの手紙は、農夫が雨を待つように、忍耐して種の来られる時を待ちなさいと勧告します。
マタイ福音書に登場する洗礼者ヨハネは荒れ野で叫ぶ行者のようです。イエスがヨハネから洗礼を受けに来たとき、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(3:14)と洗礼を思いとどまらせようとします。その時点で、ヨハネはイエスが誰なのかを彼なりの理解の中で知っていたことになります。
やがてヨハネは領主ヘロデの不法な結婚をとがめたことが原因でヘロデに捉えられ牢獄につながれます。ヨハネが待ち望んでいたメシアとは「良い実を結ばない木」をみな、切り倒し火に投げ込む厳しい裁き主でした。ところが牢獄でヨハネが耳にしたのは病人や罪人を慈しむイエスの姿でした。それで彼は自分の弟子たちをイエスのもとにつかわし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました。これに対してイエスが応えたのは本日の第一朗読で預言されていることの実現でした。
そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
洗礼者ヨハネが期待した以上に、イエスの内に神の救いが実現していることをイエスは告げたのです。
洗礼者ヨハネが自分の期待したとおりの行動をイエスはするはずだと自分のメシア観に固執するなら、イエスにつまずくことになります。ヨハネの弟子たちが帰った後、イエスはヨハネについて群衆に語ります。イエスによればヨハネは預言者以上の者です。しかしイエスは、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と結びます。
救いは人間が期待したようにではなく、神の無償の恵みとして、全く思いがけない仕方で人間にもたらされるのです。
イエスはたとえで話すわけを弟子にきかれた時、次の様に答えます。
「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(13:14-17)
イエスに「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言われた弟子でしたが、イエスが十字架につけられるときには、イエスを捨て去り逃げてしまいました。
しかし復活のイエスがイエスを裏切った彼らに出現することによって彼らは自分たちと共におられる主の存在を確信することができたのです。
この待降節のあいだも、命の危険にさらされている人たちがいることをわたしたちが忘れることがありませんように。
「あなたがたの心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」とイエスからいわれることのないように心を澄まし、耳を傾け、目をこらして、救いが訪れるよう待ち望みましょう。