待降節第三主日には、入祭唱(フィリピ4章4-5節)でも、集会祈願でも、第一朗読(イザヤ61章1-11)、答唱詩編(典礼聖歌179番)、第二朗読(Iテサロニケ5章16-24)でも、繰り返し力強く響いている言葉があります。それは「喜び」です。
そもそも、この待降節第三主日の典礼の第一声が入祭唱の「Gaudete in Domino Semper(喜べ、主において、いつも)」という音から始まるため、この日が「Gaudeteの主日」つまり、「喜びの主日」と言われていることは、割と多くの信者さんに周知されるようになってきたと思われます(まぁ、個人的には「喜べ!の主日」と言いたいところですが、そこはぐっとこらえましょう)。その喜びを表現するために、典礼色にバラ色を用いることが認められていることも、自分が叙階された頃よりも知られるようになってきたと思います。
この「喜べ、主において、いつも」という入祭唱の言葉の中で、「いつも」という音は、待降節という文脈の中で、特別な響きを持っています。「待降節」と言えば、救い主の訪れを待っている時ですので、ある意味、まだ慰めを得られていない時と言えます。そのような日々に、主が必ずよくしてくださるとの希望を抱くことが、「いつも」、つまり順境のみならず逆境においても、折が良くても悪くても、「いつも」喜ぶことができるゆえんなのです。
ですから、問題解決したから喜べ、ではなく、ほしいものを得られたから喜べ、ではない、希望しているから、主が本当に確実に来てくださるから、助けてくださるから、今はまだそれを味わえていなくても、大丈夫だから、やっていけるから、今、もう、喜べ、いつも、喜べ、待降節第三主日の典礼は、わたしたちにそう呼び掛けているのです。クリスマスになったから、救い主が生まれたから喜べ、ではなく、その前に、すでに、主が道を整えてくださっていることを確信しているから、もう、喜べ、いつも、喜べ、なのです。
その意味では、喜びの主日を祝うにあたり、福音書の(ヨハネ1章6-8節、19-28節)は、そのどこにも「喜べ」という単語が出てこないので、若干インパクトに欠けると感じる人もいるかもしれません。
けれど逆に言えば、この福音書の出来事から喜びを読み取ろう、という気持ちで向かうと、たとえば洗礼者ヨハネが抱いているメシア到来の確信から、なにか湧き上がってくる期待感を味わえるかもしれません。あるいは、洗礼者ヨハネと質問者たちとの間で交わされる、テンポのよいやり取りから、そこに予感されているわくわく感を感じ取ることができるかもしれません。非常に調子の良いやり取りですよね。「あなたは、どなたですか」「わたしはメシアではない」、「では何ですか。あなたはエリヤですか」「違う」、「あなたは、あの預言者なのですか」「そうではない」、「それではいったい、だれなのです。あなたは自分を何だと言うのですか」「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。まるでポップコーンが爆ぜているようなリズム感があります。
そしてこの洗礼者ヨハネは、メシアがすでにこの地上に、歴史上におられることを聖霊の照らしによって確信しています。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」。まだ会えていないけれど、もう、おられるのだ、と。
神の計画は進行形で実現していっている、まだその完成形は見えていないかもしれないけれど、もう始まっているのだ、と。
待降節の喜びの時です。