本日のミサの第一朗読はサムエル記上の第3章からのものですが、その中で神が少年サムエルに対して何度となく呼びかけるというドラマチックな情景が描かれています。私たちにも神はこのように繰り返し呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちは騒がしい世の中に生活していますが、それでもこの神の呼びかけには耳を傾け聞くことができるはずです。私たちの生活の中において神は天の父として日ごとに私たちに話しかけられ、神に仕えるよう呼びかけられておられるのです。私たちもサムエルのように神の呼びかけに対して、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と常に答えることができるよう整えている必要があるのです。
今日の福音朗読ではヨハネによる福音書の第一章の中から洗礼者ヨハネの弟子であったが、ヨハネがイエスを見て「神の子羊だ」と言うのを聞いて、イエスに従ったイエスの最初の二人の弟子についての箇所を読みました。ここでイエスは彼らがイエスに従って来るのを見て、振り返り、次のような質問をしています。「何を求めているのか」、つまり、「何を望んでいるのか」と尋ねたのでした。どのような哲学であっても、あるいは、どのような宗教においても、だれでも自分の人生に対してこの質問、すなわち、「私は何を望んでいるのか」、「私は何を探し求めているのか」、「一体全体人生とは何なのか」という質問を問いかけるものです。
洗礼者ヨハネの言葉を聞いてイエスの最初の弟子となったこの二人の弟子はイエスの「何を求めているのか」との質問にどう答えていいのかわからなかったのか、その質問への答えではなく、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねています。イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と答えられ、実際、共にいることで、自分の目で確かめるよう招かれました。彼らはその通りにし、イエスと時間を共にすることで、彼を知り、彼との関係を深めることで、イエスがどのような方であるか、つまり、彼らに最初に洗礼を授けた洗礼者ヨハネが初めてイエスを見て彼らに大声で叫んだ「神の子羊だ」の意味を理解したのでした。
洗礼者ヨハネの言葉を聞き、イエスに従ったこの二人の弟子の内の一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。アンデレはまず自分の兄弟シモンに会って次のように言っています。「わたしたちはメシア、すなわち『油を注がれた者』に出会った。」
そして、アンデレはシモンをイエスのところに連れて行った。イエスはシモンを見て、彼に「ペトロ」という新しい名前を授けました。イエスから「ペトロ」という新しい名前を頂(いただ)くことで新しい自分を授けられたシモンはその時アンデレと同じようにイエスをメシアとして体験したのでしょう。その後、イエスの忠実に従う者となり、イエスに対して『岩』という意味の「ペトロ」の上に私の教会を建てると言わしめています。
今日の朗読から私たちはイエスキリストの弟子として、次の2つのことを実践する必要があることがわかります。
その1つは、常にイエスからの「来なさい。そうすれば分かる」との招きに答え、イエスに従い、時間を共にし、深く知ること。
二つ目は、主イエスを知った私たちはその良き知らせを他の者と分かち合うようにすること。
以上の2つのことを私たちはイエスキリストの弟子として実践できることを願いましょう。