イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
「福音のひびき」
今日の福音書を読むときに、「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」というミサの式文を思い出しました。ミサをささげるときに、わたしは「主の教えを守り」と皆の前でよく言います。そのときにも、心の中に、キリスト信者としての使命が響いています。
特に、聖心布教会の一人として、「神は愛です」というイエス様からの教えを生涯忘れてはいけないし、誰でもの心にそれを届けるミッションをいつも覚えています。自分のよさと足りなさを意識しながら、自分自身と戦いながら、「神は愛ですよ」というイエス様からの覚えやすい教えを、誰にでも届けようと思っています。
今日の福音朗読には、「教え」という単語が四回まで出ています。イエス様が会堂に入って律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったとマルコ福音1章で語られています。
イエス様の教えは、律法を報告するためのようなものではなく、人の心を動かせるのようなものではないかとわたしは思います。イエス様は愛深い者だからこそ、その愛を人々に届けられるのです。そのために、イエス様の権威はみ心から流れ出るものでしょう。イエス様は、力強く、賢いばかりではなく、本当にいつくしみ深い者なのです。
マルコ福音1章で描かれているように、イエス様は、悪霊を取りつかれた人に直面されるとき、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました。悪霊を取りつかれた人が自由になるために、イエス様は叱って、その悪の霊にお命じになりました。本当に人々の救いを望んでおられるので、イエス様は力をつけて、悪の霊と戦ってくださいました。愛の力は強いので、悪の力に打ち勝つことができると示してくださいました。
そのために、キリスト信者には、悪の力を恐れる必要がなく、イエス様にもっと信頼する必要があるのです。
これからも、イエス様のみ心からの教えを信じていきましょう。恐れを抱いているとしたら、「主よ」や「主よ、あわれみたまえ」や「主よ、わたしを助けてください」と祈り求めましょう。主の平和と安心が皆さんの上にありますように。アーメン。