1.今日の福音の前半では、人々をいやすキリストの姿が描かれています。熱を出して寝ていたシモン・ペトロのしゅうとめの手を取って起こすと、摩訶不思議、熱はすぐに去ります。そして「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし」、「多くの悪霊を追い出し」ます。
それは単に体や精神の病をいやすということだけではなく、人間の心そのものをいやしていると言えるのではないでしょうか。
2.実に、私たちの心は、第一朗読のヨブのようです。「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない。・・・私の一生は機(はた)の梭(ひ)よりも早く、望みもないままに過ぎ去る。私の命は風にすぎない」。
人は皆、心のどこかで空しさを感じているのではないでしょうか。心にぽっかりと穴があいていると言ってもいいかもしれません。穴があいた状態は、病気の状態です。この病気をいやすため、すなわち、空虚な穴を満たすため、人間は東奔西走しているのです。パスカルの言うルサンティマンではありませんが、さまざまなことに没頭し、気を紛らしているのです。
しかし、この穴を満たすもの、心の病をいやすものは、残念ながら、この世にはありません。なぜなら、この世のものはすべて有限であり、物も人も、あらゆる物事には限界があるからです。無限の穴にいくら有限のものを詰め込んでも、その穴は埋まりません。
3.十字架の聖ヨハネは、その著作の中で、人間の心の洞穴について触れています。この洞穴には無限の広がりがあり、愛に渇いているとし、こう言っています。
「愛は愛に適合したものによっていやされるのである。そのわけは、霊魂の健康は、神の愛だからである。したがって、霊魂が完全な愛を有していないとき、完全な健康を持っていない。霊魂は病気である。なぜなら、病気とは健康の欠如に他ならないから。それで、霊魂の愛の度合いがゼロなら、その霊魂は死んでいるのである」(『霊の賛歌』11・11)。
4.イエスさまがこの世にいらしたのは、すべての人の心の病をいやすためだと言っていいのではないでしょうか。イエスさまの姿見えなくなると、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが探しています』と言います」。実に考えさせられる表現です。「みんなが探しています」。そうです。今も昔も、どこの国の人も、皆、イエスを探しているのです。だれもが自分の心の穴を満たしてくれる本当の価値あるもの、畑に隠された宝、高価な真珠を探し求めているのです。
5.この時、イエスさまは何をしていたのか、というと、「朝早くまだ暗いうちに」起き、「人里離れた所へ出て」行き、「そこで祈っておられ」たのです。祈りの中で、御父と交わり、それを通して、人々に仕え、奉仕していく力を神からいただいていたと言うことができるでしょう。福音宣教、活動の原点は、祈りだということです。もっと言えば、祈りは活動に対立するものではまったくなく、活動の中の活動であり、この無為の活動こそすべての活動を支える根本的な活動だということです。
6.いずれにせよ、イエスさまにいやされた者は、そこに安住することはできません。シモン・ペテロのしゅうとめも、病気が治るとすぐさま「一同をもてなした」ように、他者への奉仕へと向かっていきます。使徒パウロは、第二朗読の中で大胆にこう言い切っています。
「皆さん、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。
7.イエスさまも、こう答えられました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでもわたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。
私たちも同じことではないでしょうか。キリストに出会い、心の病をいやされた者は、まことのいやしが、この世のものにではなく、キリスト以外にはないことを人々に告げ知らせ、彼らをキリストのもとに連れて行くように招かれているのです。この世の食べ物ではなく、心の穴を満たす「まことの食べ物」「まことの飲み物」であるキリストに、多くの人が出会っていくことができるよう、聖霊の導きを心から願いましょう。