Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

四旬節第四主日

2024年03月10日

福音箇所 ヨハネ3・14-21

〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

メッセージ

担当者 城北橋教会 ティボン・レイナルド 神父

四旬節の第4日曜日に入っていますが、今日の福音書には、美しい箇所を読みました。「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とヨハネ福音書の3章16節に書いてあります。多くの神学者たちによりますと、この箇所は聖書全体の要約とみなされて、また、カトリック信仰の要約であるまでも言われました。私たちは神様に愛されて、その愛は、無条件の愛です。 神の愛は尽きることがなく、私たちをずっと愛し続くことの愛です。次の17節も同様に美しい箇所です。 これは、神が私たちを具体的にどのように愛しておられるかを示しています。「神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世を救われるためである」と17節に書いてあります。

この分かち合いは、何年も前に以前の働いた教会で分かち合いましたが、準備した時、上記の箇所に関係があった記事を読みました。しかし、すでにどこで読んだかを忘れてしまったので、どこでそれを手に入れたかの話しを教えられません。インターネットで探したが、ぜんぜん見つかりませんでした。とにかく、その記事の要点を分かち合いたいと思います。

数年前、ヨハネによる福音書3章16節と3章17節は、多くの聖書読者にとって特別な意味を持つようになりました。なぜなら、人々はこれらの箇所に関連する良い話しを聞いたからです。その話しは、宇宙飛行士プログラムの開発の時に深く繋がった話しでした。

NASA(National Aeronautics and Space Administration – 米国空宇宙局)の宇宙エンジニアたちは、コマンドパイロットとモジュールパイロットの宇宙スーツを設計しました。宇宙スーツのデザインの大切な一部は、臍帯と呼ばれるものです。それは、長い可撓性チューブのようなものです。そのチューブの役割は、宇宙飛行士が宇宙で歩く時やモージュールから別なモジュールに移動時に酸素を供給するためです。

コマンドパイロットのチューブコードの繋がる所はJ316と呼ばれました。一方では、モジュールパイロットの繋がるチューブコードはJ317と呼ばれました。

設計者のフランク・デノンさんによりますと、その二つのチューブコードは、聖書の二つの箇所から引用されたそうです。それは、ヨハネ3章16節とヨハネ3章17節からようです。

どうしてそのような名前を付けたのでしょうか? 彼によりますと、 J316とJ317が、宇宙飛行士がモジュールからモジュールへの旅、あるいは宇宙空間を歩く旅で生き残るために必要なものを供給するように、ヨハネ3.16とヨハネ3.17は、私たちが地上から天国への旅で生き残るために必要なものを供給するのと同じです。

フランク・デノンさんはこう言いました。宇宙スーツの臍帯は宇宙飛行士にとって、「命綱」と言うものであるように、ヨハネ3.16とヨハネ3.17を自分の心に繋がるなら主イエスキリストに命綱となるのです。

良い話しでしたね。

私たちの住んでいる世界は報酬が評価される世界です。 学生たちは良い学校に入るために一生懸命勉強します。 なぜなら、良い学校に入れば、良い将来があるからです。選手たちは金メダルを取るために懸命に練習しています。 現在カタールで開催されている2024年サッカーアジア連盟カップでも、各チームはこの大会で優勝するために必死に準備しています。

私たちは子供たちにこのような言葉を言っています。「良い子になると、神様に愛される子になりますよ」と。しかし、神様が言うのだったら、このような言葉を言ってくださるでしょう。「あなたが善人であろうと悪人であろうと、私はあなたを愛しています」と。

ちなみに、人間の私たちは、愛をどのように解釈しているのでしょうか? 普通だったらこのような言い方をするでしょう。あなたを愛するのは、私を愛してくれるからです。あなたを愛するのは、あなたを必要とされているからです。あなたを愛しているのは、私に優しいだからです。あなたを愛しているのは、あなたが私にいろいろなことをしてくれるからです。 この愛の解釈は、何を気づいているでしょうか?相手を愛しているのは、相手から何かを貰っているからです。

幸いなのは、神の愛は違います。私たちが何をやっても、神様に愛されています。罪を犯しても神様に愛されています。年を取っても、ブスになっても、太っていても、神様は変わらず私たちを愛し続けます。神様の愛は無条件だからです。

神様は私たちにこのような言葉を仰っていると思います。「あなたは良い行いをする時、私を喜ばせる愛で愛します。そして、悪いことをする時、私を傷つける愛であなたを愛します。

それが、神様の私たちに対する愛なのです。ですから、ヨハネ3章16節とヨハネ3章17節の箇所を自分の心に刻み続けるなら、宇宙飛行士が使ったJ316 とJ317のように、私たちはいつも命の源と繋がっています。私たちはいつも愛の源と繋がっています。