Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

聖霊降臨の主日

2024年05月19日

福音箇所 ヨハネ15.26-27,16.12-15

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

メッセージ

担当者 神言修道会 品田 豊 神父

今日は「聖霊降臨の主日」を祝っています。弟子達の上に注がれた聖霊が私達の上にも注がれますように祈りましょう。
さて第一朗読で読まれる「使徒言行録」に、聖霊が弟子達の上に注がれた日の出来事が次のように記されています。
「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉を話し出した。」そして天下のあらゆる国々から集まっていたユダヤ人達が、弟子達がいろいろな国の言葉で神の偉大な業を語っているのを聞くことができました。
弟子達は、イエス様が天に上げられて後、聖霊降臨の日まで、イエス様の約束された聖霊が来られるのを待ち、一同が一つになって集まり祈っていました。祈っていたというよりは、何ものかに対する恐怖のために家に引きこもっていたと言えるでしょう。その弟子達の心の恐怖心とは、ユダヤ人に対する恐れだったと思います。
イエス様が十字架にかけられてから、50日も経っておらず、その上イエス様の亡骸がなくなってしまっていたのです。弟子達は、既に何度も復活されたイエス様と出会い、内心は喜びに満たされていました。しかしそれを外に漏らすことができずに、いつイエス様の亡骸がなくなったことによりユダヤ人達が自分達を捕らえに来るだろうかという心配で心がいっぱいだったのでした。
復活されたイエス様が目の前にいてくださり言葉をかけていてくださる間は、心に安らぎを覚え、勇気すら感じていたことでしょう。しかしいったん、弟子達の前からイエス様が姿を消すと再び不安に支配されてしまっていたのです。ですから彼らの見ている前でイエス様が天に昇られ、そのまま姿が見えなくなってしまったことは、彼らの心に喜びよりも恐怖を植えつけてしまったのではないでしょうか。その上、イエス様は必ず聖霊を送られる約束はしたものの、「いつ送られる」かは、おっしゃられませんでした。恐れと不安にとらえられ、いつ来るかわからないものを「待つ」ことは、辛いことです。もしかしたら弟子達は臆病風に吹かれていたかもしれません。おそらく家の扉ばかりではなく、心の扉を閉ざしてしまっていたのかもしれません。
しかし聖霊降臨の日、聖霊に満たされた弟子達は、引きこもっていた家の扉を開き、いまだに彼らを捕えようとしているユダヤ人のあふれる野外に出て行きイエス様を証しし始めました。弟子達は、見たり聞いたりしたことを話さないではいられなかったのです。それまで心の中を占めていた、不安や恐怖、自分のことだけを考える自己中心的な考え方が心の中から消え去り、臆病者達が勇気を与えられて人々の中に入りこみ、力強くイエス様について証しし始めたのでした。
イエス様の弟子達が聖霊により勇気と力を授かり人々に福音を宣べ伝え始めた聖霊降臨の日は、教会の誕生日とも言われています。
自分達の存在を脅かすユダヤ人を、恐れ、身を隠し、ひたすら仲間内で祈っていた弟子達が、どんな障害や迫害が待っているかわからない、苦難と困難に満ちた世界に飛び出していった日だからです。
実際に今日朗読された使徒言行録のすぐ後に、ペトロが大群衆の前でイエス様を証しし始めます。その証しは堂々としており、恐怖などまったく感じられません。少しその説教を抜粋してみます。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。…このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。…私たちは皆そのことの証人です。…だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」
ペトロが行った復活されたイエス様についての証しは、ユダヤ人を告発し、イエス様の十字架上での死の責任を問う内容も含まれ、とても危険に満ちたものでした。この説教によって、すぐに捕えられる可能性さえありました。実際に弟子達は、後に捕えられ、牢に入れられ、鞭で打たれました。しかし彼らはそれによっておじけることなく、かえって「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」禁止されたにもかかわらずに「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」のです。
ここまで見てきた聖霊降臨の日の出来事から、聖霊が人々の上に注がれるということは、単に多くの言葉を話せるようになるなどの特別な能力を授かることではないということがわかります。それは、一人一人が神様から受けている大きな恵み、つまり神様の愛と慈しみと赦しを、心の扉を開け放し自分の置かれた場所で宣べ伝える力が与えられることではないでしょうか。無力で、弱く、欠点だらけの私達、何度も同じ失敗や過ちを繰り返す私達が、聖霊によって心を開かれ毎日出会う人たちの心の隅々までしみわたる言葉を語ることができるようになるということを言っているのです。
その聖霊の息吹によって語リ始める言葉こそ「愛の言葉」と言えるのではないでしょうか。聖パウロはコリント人の手紙の中で「たとえ、人々の異言、天使達の異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」とさえ言っています。また、ある宣教師は、「愛と慈しみの言葉は世界中で通じる、ただ一つの言語です」とも言っています。
たとえ同じ言葉を話す同国人であっても、家族であっても、夫婦であっても「愛の言葉」を話せなければ、関係を深めることができません。
どうか私達が毎日の生活の中で思い、言葉、行いをとおして「愛の言葉」を語れるように聖霊のめぐみを願いましょう。