Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第12主日

2024年06月23日

福音箇所 マルコ4・35-41

その日の夕方になって、
イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。
ほかの舟も一緒であった。

激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして、
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。

イエスは言われた。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、
「いったい、この方はどなたなのだろう。
風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

メッセージ

担当者 津島愛西教会 早川 努神父

今日の福音を味わうにあたって、みなさんに四つの質問を投げかけたいと思います。
① 福音朗読は「その日の夕方になって」と始まっていますが、「その日」とはどんな日のことでしょうか?
② 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」だったにもかかわらず、イエスは「艫の方で枕をして眠っておられた」。イエスのこの落ち着きぶりをどう思いますか? いささか不自然な落ち着きぶりではないでしょうか?
③ 嵐にあわてふためいた弟子たちに起こされたイエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と厳しく叱責します。しかし、あわてふためく弟子たちの方が自然なようにも感じます。イエスはなぜこのように弟子たちを叱ったのでしょうか? 信じていないから怖がっていると言われているようですが、弟子たちは「信じていて当然」なのでしょうか? そもそも「何を」信じていないと言われているのでしょうか?
④ 「風や湖さえも従う」イエスに非常な恐れを感じた弟子たちですが、叱られたからといって自分たちの誤りに気付き、反省しているようには見えません。これでだいじょうぶなのでしょうか?

① について。
今日の朗読箇所より前にどのようなことが語られているのか、4章35節からさかのぼって前の部分を見てみましょう。
2章23節までさかのぼると、「ある安息日に」と始まっていますが、この安息日がどこまで続いているかははっきりしません。しかし、イエスと弟子たちが「湖の方へ立ち去られた」後の話は、とくに安息日とのかかわりがあるようではありません。イエスは「山に登って」(3・13)、「家に帰られ」(20)、「母と兄弟たちが来て」(31)、「再び湖のほとりで教え始められ」(4・1)ました。
ここからイエスは群衆に向かって「種を蒔く人のたとえ」を語り、さらに弟子たちには多くのたとえを語ったことが伝えられています。これらのたとえは、神のみことばとそれを聞く者の受け止め方、そして神の国のあり方、すなわち人間には理解できないような神の恵みの豊かさを説くものでした。
この一連の話に続いて、今日の福音朗読箇所となりますから、すくなくとも「その日の夕方」というのは、「湖のほとりでいくつかのたとえ話を語った日の夕方」という理解でよいのではないかと思います。

さて、そのたとえですが、「神はその言葉を信じて受け入れる人には30倍、60倍、100倍の実りをもたらされる」(4・3-9、13-20)、「人が種を蒔けば、あとは神によって豊かな実りがもたらされる」(26-29)、「地上のどんな種よりも小さな種であっても神は鳥が巣を作れるほどに大きく成長させてくださる」(30-32)などのことが教えられていました。
イエスが弟子たちに「まだ信じないのか」と言ったのは、どれだけ神が恵み深い方であるかを教えたのに、何を聞いていたのか、ということだったのではないでしょうか。
これが質問③の答えです。

そうしてみると、イエスが嵐の中でもわざとらしく高枕して眠っていた理由がわかる気がします。
イエスは自分が弟子たちに教えたこと、「恵み深い神、あわれみ深い神を信じるならば、何も心配する必要などない、すべてを神にまかせなさい」という教えを、自ら実践して見せていたのかもしれません。
嵐の中を木の葉のように揺れ動く舟に乗っていても、神を信じておまかせしていれば、心配することなど何もないということを、身をもって弟子たちに示していたのではないかと思うのです。
これが質問②への回答です。

さて、最後に質問④ですが、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」と、似たような驚きの声を発した人々がいました。イエスの故郷ナザレの人々です(6・2)。
しかし、ナザレの人々は、自分たちの理解できる知識の中にイエスを押し込めて結論を出し、つまずきます。
「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)
ナザレの人々は自分たちの常識の範囲でイエスのことを理解しようとして、メシアであることに思い至ることがありませんでした。目の前で起きている恵み深いわざが神の力によるものだということを、素直に認めることができなかったのです。
一方、弟子たちはというと、驚きと疑問の声をあげながらも拙速に理解しようとはせず、イエスの本質を掴むことができるときが来るのを辛抱強く待つことができた、ということが言えるのではないでしょうか。
わたしたちも世界を理解しようとするとき、世の常識とか社会的価値観を無批判に受け入れて見ていると、福音的な見方からは離れてしまうことがあるので気をつけたほうがいいと思います。

本日、6月23日は、79年前の沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わった日です。沖縄では全県で戦争犠牲者追悼の日となっています。
当時の日本は、大陸侵略に始まって、対米開戦、そして本土決戦を引き延ばすための「捨て石作戦」としての沖縄戦、降伏の遅れ、特攻作戦の美化に至るまで、上から下まで洗脳されたような状態で「国体」と勝利とを至上のものとする思考停止に陥っていました。生命、平和、個人の尊厳など今では当たり前の普遍的価値がまったく顧みられることがありませんでした。

今日、私たちは同じような過ちを犯していないと言えるでしょうか。
沖縄県民の意思を無視して辺野古に恒久的な基地を無理やり造ろうとしていること、南西諸島に次々と自衛隊を配備し軍事化を進めていること、5年間で43兆円という巨額の防衛費を計上する(その一方で少子化対策のためとして総額1兆円規模の実質増税する)など、軍備と武力に頼って安全を求めようとするのは、神の国とは真逆の方向に進んでいると言わざるをえません。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
イエスのこの言葉は、今の私たちに向けて発せられているのではないかと思います。