キリストの聖体を考える時、カトリック聖歌集287番「みこころに」の一番「みこころにつよめられ みからだにやしなわれ おん血しおに 心もえ 救いの水 きよめませ」、という子供のころから親しんできたこの曲が思い出されます。共同体にとってご聖体は神秘であり主を感じる貴重な体験であることを、信心深い当時の信徒の方々に教えられました。また生きている教会の姿を子供の頃に感じさせられたことは、大変ありがたい時間であったことを今更ながら実感しています。
さて創世記ではメルキゼデクがパンとぶどう酒をささげ、古来から食物が儀式の象徴・しるしとして用いられたことが描かれています。コリントの教会への手紙でも晩餐を主が記念とされ、新しい契約として初期の教会でも早くから大切にされた様子が書かれています。本日の福音ではパン5つと2匹の魚を5千人に分け与え、すべての人が満腹し12の籠がいっぱいになった奇跡が後の聖体祭儀の動作と関連しています。
それぞれは簡潔にまとめることができますが、一つ一つの記述の裏には忘れてはならない共同の記憶や体験があります。当時の人々にとっても、民族の契約と深く結びついた印象深い出来事であったはずです。また主の晩餐を記念として行った弟子たちは、生前共に過ごしていたイエスとの体験を聖体と結びつけながらも、忘れえないものとして何度も何度も思い起こしたのではないでしょうか。
その教会共同体の記憶・体験全て生けるキリストのからだとつながっており、キリストご自身がいつも私たちを生かし養ってくださっている。主に愛された兄弟姉妹と共に同じ場所で一つの体一つの心となることは、私たちの喜びであり忘れえない記憶となります。
YOUCAT(青年向けカテキズム)にはどうして頻繁にミサをするのかについてこう答えています。「第一部、神は私たちとのかかわりの中で働く、聖なるしるしをとおして」166番において「人は生き続けるために呼吸するように、教会も生きるため、息づくために典礼を行います。教会に一日一日新たないのちを吹き込み、みことばと秘跡によるたまものをもって豊かにするのは、神ご自身なのです」
聖体の秘跡は私たちを養い生かしますが、教会も生きるために日々成長し息づいています。聖体の主日に当たり、それぞれの教会で聖体によって養われ息づく共同体を作ってい行くことができるよう、喜びをもって感謝の祭儀を祝ってまいりましょう。