主イエス・キリストが天に上げられたというのは主イエス・キリストが復活されたのとは別の表現です。しかし、この二つの表現によって、同じ事実が現れています。それは十字架にかけられて亡くなられた主イエス・キリストが再び生きて父である神から栄光を授けられていることです。
主の昇天という出来事の中には、二つの側面があります。それは離れることと天に上げられることです。
① 離れること、別れというのは一緒にいた人との関係の終わりです。つまり、主イエスと弟子たちとの物理的な関係が終わることです。主イエスが天に上げられた後、弟子たちは主イエスを差し向かいで見ることが出来なくなってしまいました。それは主イエスがただそのまま彼らと離れ去って天に上がられるという意味ではないと思います。かえって、イエスがおっしゃった通り、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。・・・わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。・・・わたしは父に願いましょう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。・・・弁護者、すなわち父がわたしの名によって、お遣わしになる聖霊があなたがたにすべての事を教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・2-3,18,16,26)。
この御言葉によって、主は弟子たちが御自身との前の関係、すなわち前にあった物理な関係を前よりもっと霊的な関係に替えるようにお望みになりました。彼らが御自分との物理的な依存の状態から霊的な関係へ建て替えるように主は希望しておられました。「実を言うと、わたしが去って行くのはあなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたの所に来ないからである」(ヨハネ16:17)と主は言われました。赤ちゃんが離乳期があってそのお陰で成長して大人になっていくのと同じように、主は弟子たちが御自分と物理的な別れや聖霊降臨によって霊的に成長するようにお望みになりました。
②天に上げられるというのは天におられる御父の栄光に入られたという意味です。それが御自分の力によってではなく御父がそれを与えてくださったと主は言われました。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はみなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父である」(ヨハネ8・54)。「わたしが父の内ににおり、父がわたしの内におられる」(ヨハネ14・10)と主のおっしゃったことが本当であるとその時から弟子たちは信じるようになりました。
「御子はその体である教会の頭です」(コロサイ1・18)とコロサイの信徒への手紙に書いてあります。頭として主が天の栄光を受けられて以来、御自分の体である教会は天の栄光を受ける可能性と希望があるのです。「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14・3)と主はおっしゃったからです。そういうことで、天の栄光の内にある御父と主イエス・キリストとの一致は御自分に従う人々の将来の姿の原型になっていると思います。「主の昇天にわたしたちの未来の姿が示されています」と今日の集会祈願に書いてあります。その事実によって、弟子たちは新しい希望や喜びを持ったことでしょう。
主は弟子たちが御自分の証人となるように彼らを招いておられます。主イエス・キリストと霊的な一致、そして、その喜びを他人と分かち合うように主は彼らにお命じになりました。「まことのぶどうの木」というたとえ話の中で主はこう言われました。「あなたがたが豊かに実に結びわたしの弟子になるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15:8)。
兄弟姉妹のみなさん、このような弟子たちの希望と喜びが現在のわたしたちのものになるように願いましょう。そして、日常生活の中で、それを証しすることが出来ますように。