Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

主の洗礼

2026年01月11日

福音箇所 マタイによる福音書3・13-17

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

メッセージ

担当者 東山教会 伊藤 大有

1月11日 主の洗礼、今回私の所属する教会で久しぶりに幼児洗礼が3名行われる。ただ今回この日に意図的に行われるという話でなくてたまたま日程的にこの日しかないということで、あとからこの日が主の洗礼だと判明した。このような偶然というのは人間世界ではよくあることであるが、実はそこに神の計らいがあるのではないか?この言葉を発した時、なぜか「神の計らいは限りなく生涯私はその中に生きる」という歌が耳に再現された。私は結構歌が好きで、担当している八事の第一墓地の追悼ミサでもとても晴れていたので、「晴れた空~そよぐ風~」をうたった。みなさん度肝を抜かれたそうだが実は歌というのは神への賛美を直接伝えるには最もいい方法なのだと感じる。私の洗礼名であるダビデも美しい琴音に合わせて神の賛美をしていたとのこと。私もこの世で生きていることをやはり歌のように滑らかなメロディーに乗せて伝えていきたい。ちょっと話題がそれてしまったが、洗礼というのはまさに神の計らいであって洗礼もその第一楽章なのだろう。その洗礼の恵みをいただいた私たちは神の奏でるその至高のメロディーに合わせてこの世の人生を全うし、天の国という完成された旋律の一つになっていければいいのではないか?「神の計らいは限りなく~生涯私はその中に生きる~」