Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

十字架称賛

2025年09月14日

福音箇所 ヨハネ3・13-17

そのとき、イエスはニコデモに言われた。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

メッセージ

担当者 布池教会 秋元伸介

最近、ネットフリックス(Netflix)というオンラインの動画配信で「The Chosen~選ばれしもの~」というシリーズにはまって視聴しています。2017年ころからクラウドファンディングで資金を集め、
新約聖書の物語を基に、1世紀のユダヤとガリラヤを主な舞台とし、イエスに出会って従った人々を中心に描いたTVシリーズで、アメリカでは大ヒットして、現在、イエスの受難と十字架死を描く第6シーズンが制作中らしいです。フランシスコ前教皇も製作者やイエスを演じた俳優(熱心なカトリック信者)と会って、とても喜んで冗談を交わしたという記事をカトリック・ニュース・エージェンシーという英語のサイトで見たことがあります。私が学んだ新約聖書学の教授もとても面白いと授業で紹介していました。その動画で、ちょうどモーセが青銅の蛇を造りながら、ヨシュアがそのようなもので本当に民は毒蛇から救われるのかと疑問を投げかける場面が冒頭にあり、その後の展開で、イエスを訪ねてきて対話したニコデモのエピソードに、この福音の場面が使われていたのを見ました。

本日の福音、ヨハネ3章14節で、イエスは「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言っておられます。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは民数記21・4b-9に描かれている話からの引用です。約束の地へ向かう長い旅路は荒れ野を通り、苦難の連続でしたから、「こんな粗末な食べ物では気力もうせてしまう」という不満が出てくるのは理解できます。しかし、彼らがこうした不満を漏らしたのは一度きりではなく、その度にモーセのとりつぎにより、神はイスラエルの人々に食べ物や飲み物を与えました。天からのマナ、ウズラの大群、岩から出た水などです。彼らは数々の奇跡を体験しましたが、苦しくなると「昔は今よりはましだった」「エジプトで奴隷としてこき使われても、食べ物はたくさんあった」という始末でした。「主とあなた(モーセ)非難して、罪を犯しました。」炎の蛇にかまれて多くの死者が出たイスラエル人たちは言いました。主が炎の蛇を送ったとあるので、彼らの罪に対する罰としての禍と言えますが、彼らの不満や神とモーセへの非難は危機的な状況においていつも神から助けられてきて、自分たちが従ってきた神は共にいて救ってくださる方だということをすっかり忘れてしまい、彼らの心が神から離れていき、その結果もたらされた死を表しているとも言えます。神から心が離れた結果、荒れ野に元からいた毒蛇は彼らに襲いかり、害にあったのでしょう。神の保護の手から自ら離れていったのですから。それでも神は彼らを見捨てず、モーセに命じて青銅の蛇を造らせ、それを仰ぎ見たものは蛇にかまれても「命を得た」のです。

今日の福音でイエスはご自身をこの「青銅の蛇」になぞらえておられます。モーセとイスラエル人たちに起こった出来事はイエスの十字架を予め示しているわけです。この出来事はその一千年後に起こるイエスの十字架死と復活、昇天によってなされた救いの御業の出来事を示す預言的な出来事と言えるわけです。それが「予型」と言われているものです。

「炎の蛇」とは何を表しているのでしょうか。多くのイスラエル人を荒れ野で死に至らしめたものですが、今を生きる私たちには「罪」を表していると思います。罪は私たちを永遠の死に至らしめるものだと聖書には書かれています。「青銅の蛇を上げる」とは自分たちに害をなすものをしっかりと見ることです。十字架にかかったイエスは神によって罪を知らない方なのに、罪とされた(コリント人への第二の手紙 5:21)のです。またイエスは「神の身分でありながら・・・かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ・・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・6-8)だったのです。だから十字架を仰ぎ見ることは、自分たちの「罪」を見つめ、それがもたらす結果を知り、神に立ち返ることで「永遠の命を得る」ことができると確信することです。

イエスは今日の福音で、父なる神の御心をはっきりと伝えています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3・16-17) ですから、イエスの十字架は私たちに向けられた神の愛の御心のしるしです。「十字架称賛」の祝日はまさに私たちにとっての「命を得させる青銅の蛇」である十字架のイエスを仰ぎ見て、「永遠の命を得る」ことを思い起す日、十字架による救いの御業を思い、神の愛を再び思い起こす日です。