Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

受難の主日

2026年03月29日

福音箇所 マタイ 27・11-54

〔そのとき、〕イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

メッセージ

担当者 豊橋教会 ピリスプッレ・ジュード神父

イエスのエルサレム入場は、枝で喜びを表します。
受難は悲しみ、あるいは十字架刑のしるしを表します。
枝は、愛を表すためにも、人を打つためにも使われます。
イエスがこの枝を持ってエルサレムに入城したことが、聖週間の始まりです。
教会に来るとき、私たちは手を閉じたり、祈るために手を広げたりします。
閉じるのは神の恵み、導き、祝福を得るためであり、広げるのは神の愛を他者に示すためです。
イエスは十字架上でまさにそうされました。手を広げることで、どれほど私たちを愛しているか、十字架上の死を通して救いを与えてくださったかを示しました。
つまり、イエスの愛は無条件であるということです。
人生において、誰もが受け取るためにも、与えるためにも手を広げます。
少しの間、あなたの手を見てください。

枝と施し。
私たちは聖体、つまり神、食べ物、助け、給料、助言などを受け取るために手を広げます。
あなたは日々の生活の中で、手を開いていますか、それとも閉じていますか?
手を広げ、心を開きましょう。
私たちも腕を広げて与えましょう。
子どもたちに食事を与え、子どもたちに教え、人々を助け、困難に直面している人たちの力になりましょう。
神と人々に、手と心を開きましょう。

今日は「態度」という言葉についてお話ししたいと思います。
この言葉をどのように説明しますか?
「態度」とは、人が何か、あるいは誰かに対して持つ特定の考え方、感じ方です。
例えば、人生に対する彼女の態度、人種/性別に対する態度、
女性に対する歴史的な態度、お金に対するあなたの態度は理解できません。
この説明を踏まえて、私は問いかけます。人々はイエスに対してどのような態度を持っていたのでしょうか?
人々はイエスが彼らを解放へと導いてくれるという希望を見て、「ホサナ」と叫びました。
しかし、イエスが彼らの期待に応えなかったのを見て、「十字架につけろ!」と叫びました。
態度は人々なしには存在できず、私たちは人々の態度なしに人々を知ることはできません。
私は、態度を持つ8つのタイプの人々についてお話しします。
まず第一に、人々は手押し車のようなものです。
彼らは誰かに促されない限りどこにも行きません。主導権もなく、他人に依存し、計画性もありません。
第二に、小さなボートのような人もいます。
彼らは漕がなければなりません。誰かが漕いでくれるまで、常にじっとしています。
第三に、凧のような人もいます。
糸を繋いでおかないと、流されてしまいます。
第四に、子猫のような人もいます。
常に撫でられるのを待っています。褒められないと落胆し、他人の注目を求めます。
第五に、サッカーボールのような人もいます。
どの方向に跳ね返るか分かりません。
第六に、風船のような人もいます。
空気でいっぱいで、今にも破裂しそうです。他人の失敗しか見ません。
第七に、ネオンライトのような人もいます。
点灯したり消灯したりします。
第八に、良い時計のような人もいます。開放的で、清潔で、心地よく、静かで、忙しく、良い仕事でいっぱいです。
彼らは報酬や利益を期待せずに働きます。
彼らは糸なしで働きます。神の栄光のために働く。
これが私たち人間の本質です。
この「態度」という言葉から何かを学び、この聖週間の私たちの生活について少し考えてみませんか。