Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

四旬節第1主日

2025年03月09日

福音箇所 ルカによる福音書 4・1-13

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

メッセージ

担当者 石川地区 共同宣教司牧チーム 片岡 義博

よく四旬節のシーズンになると、子どもたちに「おじいさんの小さな庭」(文:ゲルダ・マリー・シャイドル/絵:バーナデット・ワッツ/訳:ささき たづこ/出版社:西村書店/ 1987)という絵本を読んであげます。

 

そのお話しは、花や小鳥が大好きでお話しもできるおじいさんが、自分の小さな庭に咲いていた、小さなヒナギクが隣の家の華やかな庭にあこがれて「そっちで咲きたい」と言ってきかないので、悲しくなりながらも夜に隣の塀を乗り越えて、そっと隣の家の芝生に植えてあげるお話しからはじまります。要するに、『隣の芝は青い』ということわざがピッタリのお話しです。(このお話の展開はぜひお読みになってみてください)

 

司祭になって、信者さんからいろいろな相談をうかがったりしますが、この『隣の芝生は青い病』の方が実に多いということを感じます。そういうわたし自身も人のことは言えませんが、そういった意味でも、人間存在のいちばん弱い部分を突いているお話しかもしれません。

 

わたしたちは、ついつい誰かと比較してしまいます。ましてや、わたしたちの日常生活、自分と同じような状況で生活している友人やご家族が近くにいらっしゃれば、全く比べずに生活するほうが無理かもしれません。ご夫婦のこと、お子さんのこと、御両親のこと、他人(よそ)と自分の生活を比べて、それで落ち込んだり、ねたんだりする、そういうこと。大なり小なりあって、そういう生活はとっても苦しいものです。

 

今日の福音で朗読された、悪魔の誘惑も同じだと思います。隣の芝が青く見えているところに、悪魔が耳元でこう囁いたら・・・。「もし、ひれ伏して拝むなら、あなたも同じようにみんなあげるよ」と。皆さんならどうされますか? 自分も隣のところのように幸せにしてくれるなら、神も仏もあったもんか。別に神様に頼らなくても、悪魔だっていいんじゃないか、ということになってしまう人もおられるかもしれません。

 

イエス様にしても同じです。イエス様がこれから歩もうとされる道は、苦難の道、十字架の道でした。しかし、悪魔は、そんなことをしなくても私を拝みさえすれば、国々も、人々も、すべてをお前に与えようじゃないかと囁きます。

 

でも、イエス様は悪魔に、膝をかがめることを断固として拒絶なさいました。今日のルカ福音書では「退け。サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、悪魔の誘惑をはねのけます。

 

この「書いてある」というのは、申命記6章に、「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。」からの引用といわれています。

 

イスラエルの人々は、神様が自分たちを乳と蜜の流れる地に導いてくださると信じて、信仰を歩んできました。でも、神様がそれを与えてくださったら、もう神様を信じなくても良いのかといったら、決してそうではないわけです。「何かのために」ではなく、神様を信仰すること自体が、大切なことだとモーセは言います。

 

だから、「あなたがたが大きな美しい町々に住み、財産を持つようになり、ぶどう畑やオリーブ畑から収穫を得るようになり、食べて満腹するようになり、何もかも満ち足りたとしても、あなたの神、主を畏れ、主のみ仕えるということを忘れてはいけない」と話しているのです。

 

実際に、今日の第1朗読の同じ申命記でも、イスラエルの民が、約束の地に入って、その地でとれた最初の実りを神にささげ、主の前で信仰告白をしているのです。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というのは、祝福をいただくための手段ではなくて、それ自体が目的である、ということ。

 

もし、手段であるなら、他の手段があるかも知れません。たとえば、悪魔が「もし、わたしを礼拝するならば、これらのものをすべて与えよう」と言って、それが本当かどうかは別にしても、そういう誘惑にひっかかる可能性は十分にありえます。神を礼拝しようが、悪魔を礼拝しようが、ようするに目的のものが手に入れば、結果OKと考えてしまうからです。

 

今日の福音のイエス様は、神様を礼拝することは手段ではなく目的でした。それ以外のことは考えられなかったのです。私たちも、このことをしっかり黙想できたらと思います。より良き人生とか、平和な生活、平穏な生活、家族の問題、仕事の問題の解決を、神様への信仰を『人生の手段』だと考えると、神様が自分の期待通りに動いてくださらないことに失望したり、自分は愛されていないんじゃないか、と疑い戸惑ったりするようになってしまいます。

 

このことは、わたしたちの信仰をみる中で、大切なことのように思います。

「退け。サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」を手段ではなく、そのこと自体を目的とすること、そのことを、この四旬節の期間、しっかり味わって、喜びを持って、イエスさまとともに歩んでいく決意を新たにしてまいりましょう。