Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

四旬節第3主日

2025年03月23日

福音箇所 ルカ 13・1-9

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

メッセージ

担当者 東山教会 伊藤大有

昨日私は叙階15周年となった。まだ銀祝まであと10年あるということで、まわりの神父様方は本当に長い間すごいなと思わされる。あと10年自分はやっていおけるか、本当に自信はない。ところで司祭叙階のときにはカードを作ることが慣習になっておりその中でみことばの箇所を載せていた。ルカの15章20節「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した」

今回この個所が自分にあたったことはなにか意味がある事だなと思いました。

15年前私は自分が放蕩息子であって、神なる父親が走り寄って接吻したと思っていたのでしょう。しかし今実際司祭をやってみて自分はいまだに放蕩息子だが、本当に父のもとに帰ろう、と思うぐらい自分を見つめ、回心できているのかな、と思う。

もしかして叙階のころにはそのような気持ちがあったからこそ、このようなみ言葉が出ていたのだと思うが、今ははっきり言ってそのような純粋な気持ちが続いているのかなと思うと恥ずかしいがそうとはいえない。

そのような意味ではこの放蕩息子にもいまだに私はなれていないような気がする。これからもこのような放蕩息子のように本当にすべてをなげうって父にごめんなさいといえるような時がくるのかどうかもはっきりいって自信がない。

多分それは自分が死ぬときそれは試されることなのかなと思う。もしかしてキリスト者の目的は真の意味でこの放蕩息子のようになることができるよう生きていくことなのだと思う。人は弱い。しかしながら神様はいつでも手を広げて私たちが来ることを待ってくださっているのではないでしょうか。そのような意味でいつも父なる神に信頼してイエス様の導きに従いキリストに精一杯ついていけるよう自分を見つめなおしましょう。

と思ったら今回の私の担当個所は第3主日でした!!ということでこの場所は私の箇所は違いましたが敢えてその間違いも神様に導かれたのかなとおもったのでそのままにしておきます。ただ第4主日はその直前の箇所でまさしく自分の生き方を示していると思うのです!自分はまさしくこのいちじくの木なんだなと思います。切り倒されてもいいのに切り倒されない。放蕩をいまだに続けているのにいまだに諦められない大きな愛をもって神様はまってくださっている。私たちはこの愛の中で生きているのかなと思います。