Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第15主日

2024年07月14日

福音箇所 マルコによる福音書6・7-13

〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

メッセージ

担当者 神言修道会 伴 八郎 神父

今曰の福音は、12人の使徒が2人づつ実習の様な形で福音宣教に遣わされるにあたって、イエス様から心得を、まず与えられる場面であります。
ところで、12という数字は、多くの点で重要な意味を持つ数であります。私たちの生活にとっても大切な数であります。1年は12力月であり,時計は12に区切られており,空の星座は黄12宮と言われるように星座を12の領域に分けられています。
聖書では,色々な埸面で12と言う数字が使われています。マルコ福音書では 12年間も出血がとまらない女性と会堂長ヤイロの娘がイエス様のよって生き返る奇跡がありましたが,その少女の歳が12歳でありました。また、5千人の人に対してパンを与える奇跡物語においてもパン屑が集められた籠の数がいずれも12でありました。イエス様が神殿で学者と問答する歲は12歳でありました。イエス様が私が父にお顔いすれば、今すぐにでも,12軍団の天使を送って頂けると言われたように神が遣わす軍団の数も12が使われています。そして、イエス様のそばに付き添い、絶えず行動を共にするために特に選ばれた12使徒が,アブラハム,イザク,ヤコブを祖先とするイスラエルの12部族の数と–致しています。ヨハネの黙示録には、聖母マリアが太陽を身にまとった女性として1 2の星を被っています。
12という数字は多くの点で重要な意味を持つ数であります。12は完成、成就を表わす完全数とされております。ユダの裏切りによって欠員が生じた12使徒は、後になってマチアを加えて12と言う数を回復させています。結局,12という数は、イエス様と行動を共にする弟子の人数を正確に反映する数と言うよりもむしろ新しいイスラエルの民,神の民をあらわす言葉であり,神の救い完成するシンボル的な数であります。
旧約のイスラエルの民が,ヤコブの時に,その子1 2人を頭とする12部族が形成されました。その12の部族をもって作られる神の民イスラエルが,わずか12人の使徒によって新しくされているということであります。その新しいイスラエルの民を表す12人の使徒たちに,イエス様は「福音宣教の旅には杖1本の他に何も持っていってはならない」というまことにきびしい厳しい命令を与えられました。12人が持っていったものは,杖一本と,それに履物だけでした。それらはひとえに福音宣教の旅にある彼らの足を支えるもの,そしてその足を保護するものとして一本の杖とサンダルだけ,それだけでありました。文字通り,裸一巻で行けということであります。
マタイ福音では杖もサンダルも金も袋も禁じられていますが,杖は野獣に対しての防具というだけでなく、モーゼもエジプトを脱出するときに携帯したのも杖一本だけでありました。彼らが命じられた旅の装備はひたすら彼らの足に集中していると言えます。歩いて旅するという以外、彼らにはできませんでした。彼らの足こそ、イエス様のいない所にイエス様の福音を運ぶものだということです。彼らは汚れた霊に対する権能を授けられたとありました。そのようなイエス様の汚れた霊に対する権能を携えていくのが彼らの足でした。彼らは何一つ余計なものを携えずに、ただイエス様の権威だけを携えて,福音宣教の旅をしました。そして彼らが受け入れられない時は,足の裏の埃を払い落すようにとイエス様は.たとえ福昔宣教に失敗しても決して落胆するなという思いやりを示されたのだと思います。この12人が福音宣教に言ってみれば実習した経験は、イエス様の昇天後、彼らが本格的に福音宣教するにあたって後の彼らの生き方の支えになったと思います。
イエス様は彼ら12人に現代風に言えば,お金とか肩書とかコネなどにたよらないで、明日を思いわずらうことなぐその日の苦労で十分なのだ。あとは神の愛と人間の愛をひたすら信じるという素直な心で福音を述べなさいとされました。
このイエス枝の「すべてを捨てて福音せよ』と言う命令を文字通り実践した聖人にあの太陽の歌や平和を求める祈り(私をあなたの平和の道具とじてお使いください。憎しみのある所に愛を,いさかいのある所にゆるしを)で始まる平和を求める祈りを書いたアシジのフランシスコがいます。また中世の日本でも,時宗の開祖である一遍がいます。彼は「となうれば,仏も我もなかりけり。なみあむだぶつ、なみあむだぶつ」という句を残しています。
私たちキリスト者もまた、何らかの仕方の人々に福音宣教する使命があります。ミサの終わりに「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和の内に」と派遣の言葉をもってミサを終わります。この派遣の言葉は、ラテン語のミサで,「Ite missa est 」すなわちというラテン語から来たものであります。
この複雑な現在社会に派遣されるあたって.私たちは信仰に基づく 日々の生き方、行いを通して神の国を証し必要があると思います。しかしながら,私たちのもつキリスト教的,価値観やいき方が必ずしも,周りに人々に受け入れられるわけではありません。
イエス様が、弟子たちを2人づつ組にして単独では行かせなかった理由は、試練や困難な状況に置かれた時,2人が互いに支えあうとによって,福音宣教する力がより与えれると言うことだと思います。
現代の私たちもこのように神の愛と人間の愛をひたすら信じるとい素直な心でイエス様の良い知らせを人々にもたらす者となれますように聖霊の力を祈り求めたいと思います。