Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第3主日

2025年01月26日

福音箇所 ルカによる福音書1・1-4、4・14-21

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。〔さて、〕イエスは”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

メッセージ

担当者 シュエ・ルイ・ジュン神父(鳴海教会)

20年前、初めて海外に出て、英語で神学や哲学を学んだ時のことを今でもはっきりと覚えています。当初は食べ物や気候が最大の挑戦だと思っていましたが、実際には言語が最大の壁でした。言葉がわからなければ、その国の文化を深く理解することも、人と 交流することもできません。その結果、人と人との間に距離が生まれ、孤独感が増してしまいます。言葉が通じないということは、生きるための基盤を失うのと同じです。生きることの意味は単に生存することではなく、物語を紡いで人生を楽しむことにあります。そしてそれは、人とのコミュニケーションなくしては成り立ちません。私にとって、特に神学や哲学を学ぶ上で、言語が通じなければ到底合格できませんでした。

英語の言語能力が少しずつ向上するにつれて、他者と交流する喜びを味わえるようになりました。卒業後、英語圏以外の国、日本に派遣され、日本語という新しい言語に直面しました。日本語という言語は、まさに異文化そのものであり、学習困難でしたが。今日では、努力の末、日本語でコミュニケーションを取れるようになり、生活が豊かになったと感じています。今日私たちが祝う「神のことばの主日」において、神様が求めているのは「どれだけ話すか」でも「どれだけ覚えるか」でもありません。それは「聴く」ことです。「聴く」とはただ音を耳に入れるだけではありません。「聴く」とは心で聴き、主の言葉を心に刻むことです。聴いている間に、その言葉の意味を考え、自分に問いかけてみることが大切です。

イエスが生まれ育ったナザレの会堂に来られた時、イザヤ書からの朗読を行いました(イザヤ61:1)。朗読が終わると、聖書を閉じ、しばし間を置いてから次のように宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」    (ルカ4:21)。しかし、このイエスの宣言は会堂内に大きな騒ぎを引き起こしました。 後にイエスは有名な言葉を残されました。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」。(ルカ4:24)ナザレの人々がイエスを拒絶したのは、彼らがイエスの言葉を本当に聴き取らず、理解しなかったからです。さらに言えば、彼らの心は既に自分たちの望むものに固執していました。しかし、神の言葉はしばしば私たちに挑戦を与えるものです。謙虚な心で神の言葉を聴くことを学ばなければ、神との関係を築き神を理解し他者や自分自身を理解することはできません。 私たち一人ひとりが謙虚な心で神の言葉を聴くことを学び、神のことばを心で聴き、黙想することで、神の言葉が私たちの心に深く入り、 私たちの人生を喜びで満たしていただけるよう祈りましょう。