Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第4主日

2026年02月01日

福音箇所 マタイ 5・1-12a

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

メッセージ

担当者 神言修道会 荒田啓示神父

今日の福音箇所は「山上の説教」と呼ばれ、真の幸福を得るための8つの幸い、いわゆる「真福八端」をイエスが人々に教える場面が読まれています。現代の私たちにとっても、どのように生きることが、神の前に喜ばれる姿勢であるかを教えてくれている大切な箇所であると言えます。
しかしながら、日本語でそのままこの箇所を読むと、それが何故幸いであるのか、と疑問に感じる部分もあるかも知れません。特に最初の一文にある「心の貧しい」という表現は、言葉の意味を理解するのに少し難しく思えます。今日はこの表現について考えていきましょう。
現在は聖人となったマザー・テレサが1984年に来日した際、彼女は東京のとある大学での講演にて「日本人は心の中にぽっかり穴があいているのではないか」と述べました。これは綺麗で賑わっている日本の街中であるが、そこを歩いている人々の表情に笑顔が無く、悲しげに見えたことから話された言葉でした。こうした表現も、心に穴が空いているほど、豊かさに欠けるという意味で「心の貧しい」状態であると言えるでしょう。ではイエスはこのような状態の人間が幸いであると教えたのかと言えば、そうではないと思います。フランシスコ会訳聖書では、この箇所を「自分の貧しさを知る人」と訳しています。こちらの表現の方がわかりやすいですね。先に述べた通り、山上の説教においてイエスは神の前でどのような姿勢が喜ばれるかを教えています。つまり、神の前で心が貧しくある人が幸いであると語っているわけです。貧しい状態であれば、豊かさを求めます。それが神に対してであるならば、心から神を求めること、自分には神という存在が足りていないことを知ること、実感すること、これが神の前にあって「心が貧しい」という表現であるのです。
私たちは日々、様々なモノに囲まれ、それらに満足し、心から神により頼むことをしない生活に慣れています。それは今という現実を生きる上で、心が豊かであり、幸せなことであるかも知れませんが、そんな私たちに対してこそ、イエスは、神の前に喜ばれる姿勢、真の幸福がどのような生き方であるかを示してくれているのであります。自分が必要になった時にだけ、都合よく神にすがるのではなく、常に自分には神が必要であり、求めている真の豊かさはそこにしか無いことを心に留め、改めて自分自身のキリスト者としての生き方を見つめ直してみたいと思います。