新教皇レオ14世は、教皇として選ばれた日、聖ペトロ大聖堂のバルコニーで、「わたしは、聖アウグスティヌスの子、聖アウグスチノ修道会会員です。アウグスティヌスは言いました。『皆さんと共にわたしはキリスト者であり、皆さんのためにわたしは司教です』と。こうした意味で、わたしたちは神が準備してくださった祖国に向けて、皆で一緒に歩んでいくことができるでしょう」と言いました。聖アウグスティヌスの霊性を生きている新教皇様は聖霊の働きによって選ばれて、世界中の人々に与えられています。
ところで、4~5世紀にいる聖アウグスティヌスは、自分が気づいた真理を発言し、沢山の本と手紙などを書きました。現代の人々にも、心に響ける聖アウグスティヌスの言葉が沢山あり、その一つは、「主よ、あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」という告白の言葉です。
さて、今日のルカ福音書10章38~43節は、マルタの姉妹・マリアの心の態度について語られていると思います。マルタはあわただしくおもてなしの準備をしていますが、マリアには心の準備ができています。主の足もとに座って、主の話を聞こうと思っています。マリアにとって、イエス様はただのお客様だけでなく、おうちを訪問してくださっている主だからです。そのために、相応しい心で主の言葉を聞き、心の隅々にまで御言葉を受け入れます。それによって、主のみ心に適う行いをすることができるのです。
マルタは心が騒いでいて、主の御言葉を聞けずに、主に自分の言葉を聞かせるだけです。結局、主のおられることに深く気づけなく、主のみ心が分からなくなります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」という主イエスの言葉はわたしたち、一人ひとりにも当てはまる言葉だと思います。
現代、巨大な情報を毎日聞かされているわたしたちも、聖アウグスティヌスやマルタのような存在をしているのでしょう。様々な情報に引っ張られて、多くのことに思い悩んでいます。そのときだからこそ、わたしたちには、マリアのように、主イエスの近くに行き、主だと思い、主の言葉を聞き従うことは大切なヒントだと思っています。主から離れているならば、主の近くに行きましょう。ごミサを通して、主の御言葉と御聖体を嬉しく味わいましょう。それができなかったら、祈りの時間をつくって、御言葉を読み、主が響かせてくださる心の声を聴き、主とともに愛徳の生き方を誠実に送りましょう。心から祈れないときでしたら、「主よ、わたしの心が開きますように」と祈り求めましょう。
主はともにおられます。わたしたちの聴く心の態度を決してお見捨てになりません。
「主よ、わたしの心が開きますように。」アーメン。