主のご降誕の喜びの期間を終え、先週の主日「主の洗礼」の翌日から教会は年間に入りました。主日A年の年間は基本的にマタイの福音書が読まれてゆきますが、第2主日はヨハネの福音書が選ばれています。
今日の福音では洗礼者ヨハネが登場し、自分の方へイエスが来られるのを見て、イエスがどのようなお方なのかということを話し始めます。ではイエスは一体どのようなお方なのでしょう。ある聖書学者によれば、人々の罪を背負って亡くなることによって世の罪を取り除く小羊であり、ユダヤの民がエジプトを脱出した記念のために屠る小羊であり、終末的な小羊―世の終わりに現れて裁く意味があるとのことですので、このことを心に思い巡らしてみることもできるでしょう。
そのお方は、わたしよりも先におられた。わたしが存在するよりも先におられたー時間を超えて存在しておられたお方であると言おうとされたのでしょうか。そしてヨハネはこの方を知らなかったと告白しています。イエスがヨハネから洗礼を受けるために来られた時に初めて出会ったということなのでしょう。
その時に初めて出会った方ではあるけれども、そのお方が誰であるのかということについて、ヨハネはその方が「神の子」であると言います。なぜならヨハネは前もって自分を遣わす方から「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が聖霊によって洗礼を授ける人である」と具体的に示されており、それがイエスにおいて実現したことを自分の目で見たからです。
ヨハネ福音書の中には、他福音書の中に描かれている様な、イエスが洗礼を受けられた場面の具体的な記述はありません。ヨハネの言葉の中において、証言として述べられているだけです。
イエスの洗礼の様子は、マタイ福音書では、3章16節・17節。マルコ福音書では1章9節から11節。ルカ福音書では、3章21節・22節に記されていますので、お手元の聖書を開いてご覧になられても良いかも知れません。これらの箇所を新共同訳で見て見ると、3つの福音書に共通する言葉として「霊が鳩のように」「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」がありますので、ヨハネはこのことを実際に目撃したのかも知れません。ヨハネ福音書には描かれていませんが。
先に、先週の主日「主の洗礼」の翌日から教会は年間に入りましたと書きましたが、主の降誕を祝い終えた私たちですが、私たちのところに来られたお方は一体誰なのか、ヨハネはこのように証言しているが、あなたはどのように捉えているのか、どのように思っているのかということを今日の福音を通して問いかけられている様に思います。
私たちのところに来られたイエスは、神の子。まことの神でありまことの人です。そのお方が私たちのために十字架につけられて亡くなられ、私たちの罪を贖って下さいました。そして私たちは信じて洗礼を受けることによって「神の子」となり、今を歩んでいます。
私たちが今、神の子でありうるのは、イエスが神の子であり、私たちのためにその命を捧げて下さったからにほかなりません。そのことを私たちは、どれほど深く理解しているでしょうか。神の子とされた私たちが、神の子として相応しく歩んでゆくことができますように。
イエスが語られることに耳を傾けて、聴き、行なうことによって、神の望み、ご計画が私たちのうちに実現してゆきますように。イエスとともに歩み、神の子として神の愛を世に証ししてゆくものとなりますように。