Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

年間第20主日

2024年08月18日

福音箇所 ヨハネ6・51―58

〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた〕 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

メッセージ

担当者 港教会 山野 聖嗣 神父

みなさん、こんにちは。今日は、年間第20主日となっています。8月の6日から始まった日本のカトリック教会で行われている平和旬間も先日の聖母被昇天の15日で今年も終わりました。日本の15の教区ごとにそれぞれの司教様も、平和旬間の間に、教区行事として、司教ミサを捧げられたと思います。名古屋教区も、ミカエル松浦悟郎司教様は、先週の日曜日に名古屋教区の司教座聖堂カテドラル布池教会で司教ミサを捧げられました。平和祈願ミサの前には、大人だけでなく名古屋教区の子どもたちにも分かりやすいように日本の昔ばなしの桃太郎が鬼を成敗するという普通の「桃太郎」の動画をみんなで観ました。そのあと、桃太郎と鬼たちが戦わない違うストーリーの「桃太郎」の動画をみんなで観ました。それから、それぞれ自分が感じた平和についての感想を2つの違う「桃太郎」のはなしの動画を通して分かち合いました。その後、世界中で起きている争いや戦争が1日でも早くなくなるようにと平和祈願ミサが行われました。
数年前の平和祈願ミサの説教の中で、名古屋教区長のミカエル松浦悟郎司教様は、現代社会において、アメリカが今、空の上の宇宙に戦争の為の、人殺しの為の軍事施設を作ろうと計画していることをとても心配されていました。私も、当時のアメリカ大統領であったトランプさんが宇宙の軍事活動の計画について知っていましたが、松浦司教様の説教の中でその話が出た時には、改めて、アメリカは、恐ろしい計画を立てようとしているなと感じました。私が、子どもの頃に読んだSF小説に出てくる宇宙戦争が現実になろうとしていると思いました。皆さんもご存じのように、日本は、79年前の8月15日に敗戦日を迎えました。その前日の14日に愛知県の豊田と春日井に爆弾が落とされたことを知っている人は、愛知県の人しかしらないのではないかと思います。8月6日に広島に原子爆弾を落としたアメリカは、改良した大きな原子爆弾を長崎に落としました。そして、その後、8月14日に、第3の改良した原子爆弾を開発する為に、B29の戦闘機が愛知県の豊田と春日井にパンプキン爆弾を落として行きました。8月15日に日本が無条件降伏を宣言しました。もし、そのまま戦争を続けていたなら、豊田と春日井に落とされた改良型の爆弾が第3の原子爆弾となって日本のどこかに落とされていたかもしれません。それを考えるとぞっとします。戦争は、勝者も敗者も死です。それ以外はありません。
さて、今日の福音も、イエス様は、死について話されている言葉があります。しかし、その言葉は、永遠の命とつながる言葉でもあります。皆さんには、ピンとこないかもしれませんが、この言葉です。「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉の事である。」この言葉は、イエス様が自分自身の肉体の死を示しています。自分の肉を与えるということは、つまり、イエス様が自分の命を捨てるということを意味しています。この福音書を書いた聖ヨハネは、イエス様が最後の晩餐で語られた言葉通りに書いています。他の福音書を書いた聖マタイ、聖マルコ、聖ルカは、「これは、あなたがたの為に与えられる私の体である」と記しています。しかし、聖ヨハネだけは、他の3人が使用している「体」という単語を使わないで、「肉」という単語を使っています。それは、体という言葉よりも、肉という言葉の方が、もっと現実的で生々しい表現になるからです。イエス様は、父である神・子である神・聖霊である神という三位一体の唯一の神様の「子である神」です。目に見えない神様が私たちと同じ人間として、この世に来られました。それは、死ぬ性質の肉体を持っておられたことを人間の弱さを三位一体の神様が強調する為でした。実際、聖書学者の多くが、聖ヨハネが使用したように、ヘブライ語の田舎弁、イエス様が話されていたアラム語は、体ではなく、肉と、翻訳した方が正確だと言っています。イエス様は、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と今日の福音個所にあります。このことを弟子たち話されたことによって、現代の私たちは、ごミサの中で頂くご聖体を大事にします。私たちがご聖体を頂くとき、この信仰共同体は、イエス様の弟子として、兄弟姉妹として、最も親密に一致している瞬間であることを教えてくれています。私たちがご聖体を頂く時、永遠の命を与えることがおできになる神様から、永遠の命の保証をして頂いています。肉体の死を超えた永遠の命があることをご聖体の秘跡によって、私たちの1人ひとりの霊魂が理解しています。
今週も、私たち1人ひとりが、イエス様の肉体であるご聖体を頂くとき、私たちの肉体の糧となり、霊魂の糧となって、永遠の命への天国の門がいつも開かれていることに感謝を捧げましょう。また、この世の政治家たちが、平和の為に良い実りをもたらし、働くように祈って参りましょう。