もう亡くなって20年ほど経ちますが、全身の筋肉が徐々に萎縮して運動機能が失われていく進行性の原因不明の難病といわれるALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っていた叔母がいました。
叔母は、発症して、最初は指に力が入らなくなり、体と両足、両手の筋力が全く無くなって、自分の力では動かすことも出来ず、次第に呼吸筋力も徐々に低下していって、ついに自力での呼吸が困難となって、最後は人口呼吸器の状態でしたが、最後は自宅に移って、叔父さんたち家族みんなで頑張って介護されていました。
体や手足は筋力が衰えて、全く動かせない状態なんですけれども、意識はハッキリしていたので、病床から文字盤を使って、当時、毎日のように短歌を作っていて、それを1冊の本にしてまとめていました。
その歌をいくつかご紹介します。
・胸の内 吐き出す思い歌にして 拙けれども 心満たせり
・祈ること 出来る幸せ辛くても 神様すべて ご存知だから
・動けねど 見る聴く出来て嬉けり こころ傾け オカリナを聴く
・口あけて 話していても通じない もどかしさあり 悲しくもあり
ときどき、この本の叔母の歌を詠みながら、進行性の不治の病にかかっても、未来への明かりを閉ざされた者が苦悩の中にあっても、なお生きていこうとする「心の動きや想い」、そして、日常何気ないことを綴っているわけですけれども、普段わたしたちが気づきにくい、当たり前で気づきもしないところに、目を留め、嬉しいことも、ツライことも、悲しいことも、すべて日々を神に捧げていこうとする信仰の深さに驚かされます。
今日の福音で、イエスは、耳が聞こえず、舌が回らない人に対して、イエスは「エッファタ」「開け」と言われました。この「エッファタ」という言葉はアラム語です。
新約聖書は原文、ギリシア語で書かれていましたが、聖書にはイエスが話したアラム語がそのまま残されている箇所がいくつかあります。この「エッファタ(開け)」や、「タリタ・クム(娘よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」という言葉。ほかにも、イエス様が十字架上で息を引き取られる前に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という言葉などがあります。
翻訳されずに、そのままアラム語が使われています。それは、翻訳してしまうと、その言葉の力強さが失われるように思われたからといわれます。福音記者たちも、やはりイエスの言葉をそのまま伝えたいというメッセージをここで読み取ることができます。
その叫びというのは、先ほどの私の叔母のように、また「耳が聞こえず舌の回らない人」のためだけではありません。わたしたちすべての心に、「開け」と呼び掛けているのです。
イエスのさまざまな教えや導きにもかかわらず、わたしたちの耳はイエスの言葉がよく聞こえていません。イエスの招きがあっているのに、わたしたちの舌は神を賛美するためによく回らないのです。
そんなわたしたちに、イエスは今も「エッファタ」「開け」と叫んでおられるのではないでしょうか。生活のすべてで、わたしたちはイエスの呼び掛けに耳を傾け、舌を使って賛美することが普段できているかなぁ、と反省させられます。
1日の始まり、また1日の終わり。イエスは「開け」と言っているのに、わたしの舌は神を賛美して1日を始め、賛美のうちに1日を終えているでしょうか。こうしてイエスは、わたしたちすべてに、「開け」と言って心を神に向けるように促しています。
そして、もうひとつ注目しておきた言葉があります。
「深く息をつく」という言葉です。「エッファタ」と叫ばれる前に、イエスは、「天を仰いで深く息をついた」とあります。普通、深く息をつくって、思うと、「はぁ、しょうがねぇなぁ」という感じをイメージしてしまいがちですが、ニュアンス的には「うめく」という言葉が近いようです。それは苦しみの中で救いを求めて叫ぶことだそうです。そうすると、イエス様が目の前の人の苦しみに寄り添い、その人の苦しみから出る「うめき」とひとつとなって自分もうめくところから、癒されていった、救われたということです。
イエスが行なった数々の「いやし」は、すべてそのような、救いを求める人たちと共感する、共鳴するといっても、良いかもしれませんが、そういったところから起こったことだと想像できると思います。
そんなイエスに、わたしたち1人ひとりが、病気になってから神の言葉を聞いて、心開かれるのではなくて、いま心を開いて、神を賛美する者となりたいものです。
そしてまた、人と人との語らいを通しても、心を開いて神を賛美する語らいとすることが可能です。いつもどんな相手からでもです。
イエスが「エッファタ」「開け!」と言っておられることに気づいて、神と結び合わされることができますように。