皆さん、どのように神に近づいていますか?祈りの内容は何でしょうか?正しい人でありながら、他人を見下していませんか?
今日のルカによる福音書は、神殿におけるファリサイ派の人と徴税人のたとえ話を教えています。このたとえ話は霊的な真理に満ちています。イエスはこの物語を、自分の正しさに自信過剰で、他人を見下す人々を叱責するために語られました。このたとえ話の中で、イエスは主人公と敵対者の人物像を描写しようとしたのではありません。むしろ、様々な登場人物は、私たちが自分自身を覗き込み、様々な側面を見るための鏡のように、私たちの前に置かれているのです。そして同時に、私たちが誰かを非難するためでもありません。
福音書から学べる3つの教訓があります。まず、正しい姿勢で祈ることです。ファリサイ派の人は神殿に立ち、自分の善行と美徳について祈り、他の人々、特に徴税人とは違うことを神に感謝しました。彼の祈りは、彼のプライドと自己満足を浮き彫りにしています。さらに、彼の祈りには告白や神への賛美の言葉は一切ありません。彼の祈りはすべて自分自身についてです。
一方、徴税人は遠く離れて立ち、天を見上げて神を見ることさえできず、胸を叩きながら「神様、罪人である私を憐れんでください!」と叫びます。徴税人はイスラエルの裏切り者と見なされ、追放者として扱われていました。彼の祈りは、告白と深い謙遜の祈りです。彼の祈りは、まさに神が聞きたがっておられる祈りです。さらに、神に近づく彼の姿勢は、神がご自分のもとに来るすべての人に求めているものと全く同じです。
次の教訓は、独善を拒むことです。このたとえ話は、自分の善行だけで神の恵みを得られると考えることから生じる傲慢さを警告しています。独善は、私たちを自分で自己を高く評価させ、他者を見下すようにするための悪魔の傑作です。ですから、あらゆる形や形態の独善に気づかなければなりません。ある人は、自分の「美徳」と信じていることによって、罪によって害を受けるのと同じくらい大きな害を受けています。
もう一つの教訓は、謙遜の必要性です。謙遜は、私たちの人生を神に受け入れられるものにします。謙遜は神に近づくための主要な要素です。神に真に受け入れられるには、自分の罪深さを認め、神の憐れみに頼ることが必要です。その結果、イエスは徴税人が義とされて家に帰ったと宣言しました。ファリサイ派の人は、外見上は敬虔でしたが、心が傲慢で満たされていたため、義と認められませんでした。イエスの最後の言葉は教訓を要約しています。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高くされるであろう」(ルカ18:14)。
祈り:主イエス様、たとえ話の登場人物に描かれている私たち自身の弱さを認めるとき、私たちも頭を垂れ、胸を打ち、「神よ、罪人である私に憐れみをお与えください.」アーメン.