教会のカレンダーは待降節第一主日から始まります。待降節はまさに来たろうとする方を待つ季節です。教会の聖書朗読配分はあらかじめ決められていますが、神のみ言葉は、今、ここに生きるわたしたちに語られているのですから、そのつど、その響き方は異なります。
ロシアによるウクライナ侵攻、聖地における戦闘の応酬の中で、多くの子どもたちが殺されたり、飢えや渇きに苦しむ様子が毎日報道されています。
第一朗読は、「主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』これは永遠の昔からあなたのみ名です。」という言葉で始まります。「わたしたち」はアブラハムを信仰の父とするユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒を指していると思います。
もし、今のイスラエル政府が、イエス時代のイスラエル国をパレスチナに樹立することを目指しているとすれば、聖地は終わりのない戦いの場と化すのではないかと危惧されます。
マルコ福音書13章は「小黙示録」と言われます。
エルサレム神殿の崩壊を予告した後、イエスは弟子たちの求めに応じて、終末のしるしについて語ります。
「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」というイエスの言葉は、今の聖地のありさまを映し出しているようにも思います。
「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」のですが、それは神のもたらす破滅の日ではありません。
イエスは、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」と、その日が救いの日であることを告げます。
しかしイエスは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」と言います。
イエスの語る終末のしるしは、聖地で行われている戦争の様子と重なります。
今年の待降節は、聖地をはじめとした世界中の紛争地に「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」がもたらされるよう、目を覚まして祈りましょう。