「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近い」
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず不安に陥る」(25-26)。これは今日の福音の出だしで、大変劇的な表現で、神が世の終わりをわたしたちに告げられるかのようにとわたしたちはそう思ってしまいます。そして、わたしたちは次のようにその続きを想像します。……そして天使の大群が現れて、死者を呼び起こすためにトランペットを吹き鳴らし、全員を神の裁きの座の前に立たせます。その時主イエスは雲に乗って現れ、一人一人の決定的な「裁きの判決」を告げられますと。
けれども、今日の福音に実際に書かれたのは、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」(27)とあります。「裁きや世の終わりなど、何ひとことはなかったのです。確かに、今日の福音に使われた終末的、黙示録的で象徴的な表現がわかりやすいものではありません。時には、誤解を招くのです。聖書の中には、何か劇的で大きな変化を伝えようとするとき、人の注目を引くためにこういった劇的な表現がよく利用されています。
では、今日の福音で、これらの表現を利用して、主イエスは、わたしたちに何を伝えようとされるのでしょうか。
今日の福音個所の黙示録的な表現をよく注目すると、旧約聖書の創世記のはじめのところを思い出させると思います。そこには、「初めに神は天地を創造された。地は混とんであって」(創世記1:1-2)とあります。つまり、暗闇は地を覆い、地は混沌、形もなく、何の秩序もありません。その状態から神は、秩序正しくすべてを創造し、人間の住まいを整えてくださいました。神はご自分がお造りになったすべてをご覧になりました。それは極めて良かったのです。
神が整えてくださったすべてが、なぜ今日の福音では、また恐ろしく混沌や混乱の状態に戻るのでしょうか。最初から、神は、すべてをごらんになって、「よし」とされたのではなかったでしょうか。
主イエスが使われた言葉や表現は象徴的なものであることを忘れてはいけないと思います。混沌や混乱になったのは、まず、宇宙万物ではなく、人間のわたしたちなのです。自己中心に生きること、悪意、争い、支配、敵対、滅ぼしあいという死をもたらす罪のためです。この状態は、いつまで続くのでしょうか。永遠に続くのでしょうか。そうではないと、今日の福音は教えてくれます。人の子であり、神の子である主キリストが現われるとき、世界は再創造され、新しく秩序付けられるのです。悪意、憎しみ、争いなどによって、混沌となった人間の世界は救い主の到来によって新しくされるのです。
主の降誕際は新しい世界の再創造の希望のお祭りです。しっかりと心を整えて希望の喜びをもって迎えましょう。