Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

待降節第2主日

2024年12月08日

福音箇所 ルカ 3・ 1-6

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

メッセージ

担当者 神言修道会 品田 豊 神父

今日の福音書の最初の部分には、当時の最高権力者の名前が、「皇帝から始まって総督、領主、大祭司」と列挙されています。しかしながら神様の御言葉は、荒れ野に住んでいた名も無いヨハネに降ります。

「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷は全て埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は、平らになり、人は皆、神の救いをあおぎみる」ために洗礼者ヨハネは神様から選ばれたのです。この神様の「選び」によって「主の道を整えること」とは、大きな事業をすることではなく、日常生活での小さなこと通してなされることが示されています。

ここで言われている「主の道」とは、シャベルやつるはしを使って整備される実際の道路をさしてはいません。それは、私達一人一人とキリストを結びつける心の中にある道を示しています。いつキリストを迎えてもいいように各自の生き方を整えておくことが必要なのではないでしょうか。そういう意味で主の道を整える使命を神様から授かった洗礼者ヨハネは、罪の赦しを得させるために「悔い改め」の洗礼を宣べ伝えたのでした。

それでは、「悔い改め」とはどんな意味なのでしょうか。私達は、この言葉から「生活の中の悪い点を反省し改善すること」や「悪事や過失を悔いて善に向かうこと」を想像します。しかし聖書の述べる「悔い改め」はそれだけに留まりません。「悔い改め」とは、今、自分の心がどこに向かっているかをよく見極めた上で、もし神様に背を向けているのであれば、神様のほうに向き直ることなのです。ご自分の御独り子をお与えになるほど私達一人一人を愛してくださる神様の愛に気がつき、その愛を受け入れることです。そして神様に愛される喜びを感じることにより、神様のために生きるようになることを意味します。ですから、どんなに涙を流して謝っても、悲しんでも、心が神様のほうに向くことが無く、生き方が変わらないのなら悔い改めたということができません。

それでは神様のために生きるということはどういうことでしょうか。それは特別なことをやりとげることではなく、日常茶飯事の小さなことを、自分だけのためにするのではなく、隣人を通して神様のために行うことです。私達は、日ごとの働きを通してこそ神様にもっとも良く奉仕することができるのです。だから、毎日の生活の中で起こる出来事、出会う人々を大切にすることが必要なのです。そうすることによって自分自身の心に「主の道」を整えていくのみではなく、他の人の閉ざされた心も開くことが可能になってくるのです。

ところで先週、足を骨折し入院されている、一人の高齢者の方に御聖体を持っていきました。その方の年齢は100歳近くです。約一ヶ月ぶりの訪問でしたが、私達のことを「どちら様でしょうか」とたずねられてしまいました。今までは、人の顔を忘れることが無かった方だったので少し驚きました。しかし御聖体を拝領して、しばらく雑談した後に、「忘れないうちにあなたがたに一つの願いごとがあります」と言われ、続けて「この病院で働いている一人の女性がぜひ教会に行きたいといっていますから、帰りに必ず彼女に会って教会に招待してください」と願われたのです。その後、付き添いの方が、すぐにその女性を呼びに行き、病室で出会うことができました。彼女はいきなり呼び出され、その上5人の初対面の人の前に立ち、とても緊張していました。ご高齢の方は、その彼女の手をやさしく握り続けて、「この人達は教会の人だから、何でも教えてくださるから、安心してくださいね」と私達を紹介してくださいました。

100歳近くで骨折してしまい苦しい入院生活を余儀なくされ、リハビリの痛みに耐えているのですから愚痴の一言二言くらい出てもおかしくありません。しかし彼女は、相変わらず普段と変わらない生活を続けていたようです。それは、長い間の信仰生活で培った、苦しい時も悲しい時も痛みの時も神様への感謝と祈りを捧げる生活です。おそらく、その若い女性は、看護を通してまっすぐ神様に向かって開かれた彼女の心に触れることにより彼女を愛し生かしておられるキリストを知りたいと言う気持ちを抱いたのでしょう。

彼女は、私達の顔を思い出せませんでしたが「キリストを知りたい。教会に行きたい」との若い女性の一言だけは決して忘れることが無かったのです。彼女にとっては自分の痛みや苦しみよりも、他の人がキリストと出会えることの方が、重要だったのでしょう。私は、彼女の生き方の中に神様のために生きることの秘訣があるような気がしました。 つまり今、自分が置かれている状況、環境、能力において人のために、何をもって奉仕することがもっとも良いかを考え、実践しながら生きることなのです。

神様のために生きるためには、年齢・病気・仕事の有無・貧富の差は関係ありません。それぞれの人が今、自分と生活を共にしている人、あるいは自分を必要としている人、自分が赦せない人のために何ができるかを、問いかけることが大切なのです。しっかり心の目を開き、身近な人間関係を見回して見ますと、私達の傍には、泣いている人、孤独や痛みに耐え忍んでいる人、他の人の誤解や不理解に苦しんでいる人、どこにも居場所が見つからない人がいるものです。時には同じ屋根で住居を共にしている場合もあります。

自分にできることは、その人と共にいることだけかもしれません。赦しを願ったり、赦したりしてあげることかもしれません。苦しみの訴えを傾聴することかもしれません。実際に手を差し伸べて手助けをすることかもしれません。あるいはしばらくの間、そっとしておいて祈り続けることかもしれません。答えは、千差万別です。しかし私達が他の人のために生き始める時に、私達の心の中の「主の道」は少しずつ神様によって整えられていくのです。

今日の第2の朗読でパウロはフィリピの信徒のために「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられますように」と祈りを捧げています。どうか私達が、今、私達の周りで暮らしている人達や出会う人達のために、何ができるかを知る力と見抜く力を身につけることができますように。そして互いに、思いやり、大切にする気持ちが深められますように。そうすることによって、でこぼこで穴だらけの私達の心の中に「主の道」が整えられますように祈りましょう。