以前、復活節第二主日は「白衣の主日」と呼ばれていました。なぜなら、初代教会の時代の習慣にしたがって、御復活の聖なる徹夜祭中に洗礼を受けた新信者が、その時に着せられた白い衣を次の主日まで身に着けていたからです。
ところで、2000年の大聖年に、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ポーランドの神秘家であるシスター・ファウスティナ・コヴァルスカを聖人の列に加えられた時、「白衣の主日」を「主のいつくしみの主日」に替えられました。その理由は次のような出来事にあります。
1931年からイエス・キリストはシスター・ファウスティナに現れるようになり、神のいつくしみへの礼拝を全世界に広めるように彼女に求めていました。それに応えて、ロザリオの珠の五連を用いて、「神のいつくしみ」のチャプレットができました。即ち、一つの珠で「永遠の父よ、私たちと全世界の罪を償うために、あなたの最も愛する子、私たちの主イエス・キリストの御体と御血、御霊魂と御神性を、あなたにお献げします」を祈ってから、10珠を用いて、「その苦しい御受難によって、私たちと全世界をいつくしんでください」と繰り返して祈るように教えてくださいました。
この祈りに併せて、イエスは、シスター・ファウスティナに見せた御自身の姿を忠実に描くように求めました。その御絵に、「イエスよ、あなたに信頼します」という字を記すように言われました。シスターは、現れたキリストの特徴を画家に詳しく伝え、「神のいつくしみ」の聖画ができました。描かれた復活のキリストが、その聖画を仰ぎ見る人に近づくという印象を与えます。イエスの両手には釘付けにされた傷跡が見え、右手で祝福を与え、左手が槍で刺し貫かれた胸にある傷跡から世を照らす白と赤の光を指し示します。白い光は罪を清める水を、赤い光は新しい命を与える御血を表現すると言われました。この聖画はキリストの指示とおり、御復活の第二主日に祝別されました。こうして、いつくしみの礼拝が発進して全世界に広がるようになりました。
御復活の第二主日の福音は、キリストが御復活の日の夕方に弟子たちの真ん中に立ってご自分の体を始めて見せましたが、使徒トマスはその時に一緒にいなかったことを紹介します。御復活の話しを聞いたトマスは、その体に残った御受難の傷跡に触らなければ、決して信じないと宣言しました。そこで、御復活の八日目にイエス様は再び弟子たちに現れ、使徒トマスに指を御自分の手にある傷跡に、槍で刺し貫けれた胸に自分の手を入れるように招きました。この方法で、キリストは神の限りないいつくしみを表現し、世界に現しました。
イエスの話した言語、ヘブライ語では、「いつくしみ」は特別の意味を持っています。いつくしみを現す「ラハミーム」という言葉は、「子宮」を意味する「ラヘーム」という言葉の変化です。こうして、「いつくしみ」は母体の子宮のように新しい命を神の賜物として無条件に受け入れて包み、自分の身を削ってその命を養い育て、平和のうちに守り、命懸けに苦しみの中で誕生させるという意味を含んでいます。
福音の文脈の中では、御受難を見た弟子たちは逃げ、キリストを知らないと言って裏切った罪を背負っていた状態にいました。御復活の日の夕方に弟子たちの真ん中に立ちキリストは、裏切りの罪について一言も触れることなく、変わらないいつくしみを示し、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしなったように、わたしもあなたがたを遣わす。」、「聖霊を受けなさい。誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。」という言葉をもって、彼らに人間として、御自分の弟子としての新しいスタートにさせました。使徒トマスの不信仰の理由は、キリストのいつくしみの偉大さが彼の想像を遥かに超えていたからです。しかし、自分の手指をキリストの傷跡に入れることによって神の限りないいつくしみを知るようになり、力強く自分の信仰を告白します。「わたしの主、わたしの神よ」と。
キリストが神だったから、やはり御復活なさったということを認める信仰は、充分ではありません。キリストは、私たちの一人ひとりにとって、「わたしの主、わたしの神」と成ったかどうかは、大きな課題です。いつくしみの主日の背景には、私たちが神のいつくしみに触れるための力強い招きがあります。キリストの傷によって赦され、癒された私たちは、神の赦しといつくしみを生きることによって、御復活に与る者となります。
私たちがイエスの体に触れることができるために、キリストは御聖体のうちに御自分の存在を秘められました。こうして、御ミサに与る私たちは、キリストの体を触れるだけでなく、自分の口に入れて頂くことができます。したがって、私たちのうちに生きるようになる御復活のキリストは、私たちの手足と心を用いて、世の中で神の限りないいつくしみを広めることができるのです。その恵みに応えて私たちは、神のいつくしみに相応しい道具と、熱意ある御復活の証人となるように祈りましょう。