本日のみことばの典礼のテーマは「異邦人への宣教」です。
第1朗読の使徒言行録では、神をあがめる異邦人がパウロとバルナバの話を聴こうとして集まると、ユダヤ人たちがそれをねたみ、パウロとバルナバをののしります。そこでパウロとバルナバは「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。」と宣言します。
パウロの宣教によりキリスト教がユダヤ教の一分派ではなく、独自の新しい教えとして人種を越えて世界の人びとに伝えられることになります。
第2朗読のヨハネは、「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立っていた。」と証言します。この事態は使徒たちが異邦人に向けて福音を告げたことの実りです。
ヨハネ福音書10章は羊飼いと羊のたとえから始まります。
本日の箇所では羊飼いである「わたし」と羊との密接な関係が語られます。羊は、自分を守る牙や爪を持っていないので、肉食の動物に食べられる危険があります。また、盗賊に盗まれる危険もあります。
羊飼いは外敵から羊を守り続ける必要があります。イエスは羊飼いと羊のたとえで、ご自分とご自分に付き従うものの関係を示しています。
ふつう、羊飼いが羊を飼うのは生活のためです。羊を市場で売ったり、羊毛を取って毛糸を作ったり、食糧として羊の肉を食べます。雇われの羊飼いの場合は、他人の羊を飼って賃金をもらいます。そうした意味で羊飼いにとって羊は生活の手段です。
ところが、イエスは「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来た、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:10-11)と言われます。イエスは羊のために命をすてると断言し、しかも羊に「永遠の命を与える」と保証します。
なぜなら、イエスにとって羊は父から与えられた「すべてのものより偉大」なものであり、だれも父の手から奪うことのできない存在だからです。
イエスがいう羊とはいうまでもなくご自分の声を聴いて、安心してその後に従うわたしたちのことです。
羊であるわたしたち一人ひとりは、イエスがご自分のいのちにかえても守ろうとするほど、イエスにとってかけがえのない存在、価値のある存在であることを忘れてはならないと思います。
イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10章16節)と言います。
「異邦人への宣教」という観点からは「この囲いに入っていないほかの羊」とは、ユダヤ人ではないキリスト教徒のことを指していると受けとめることもできます。
教会は、人種の違いや、国境を越えたキリストの教会であり、その牧者はキリストご自身のことです。日本の教会には、さまざまな国からの人々が増えてきています。
忠実な羊飼いの声をわたしたちが聞き分け、その羊飼いにいつも付き従うことができますように。また、私たちの隣にいる人もイエスがいのちがけで守る貴重な羊であることを心から受け入れることができますように。