Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

復活節第5主日

2025年05月18日

福音箇所 ヨハネ 13・31-33a、34-35

さて、ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

メッセージ

担当者 北陸ブロック富山地区 小川 満 神父

主は復活し、私たちの間に活きておられる、アレルヤ

 

ナザレのイエスを、神が遣わされた神の子、私たちの救い主と信じておられる信徒の皆さんに、主のご復活のお祝いを申し上げます。

キリストの復活は私たちの信仰の核心であり、キリスト者の生活の根源でもあります。聖パウロが言うように『キリストの復活がなければ、私たちの宣教も無意味なものであり、あなた方の信仰も無意味なものとなる』(Iコリ151314)のです。

しかし、四福音史家の復活に関する記述には、現代に生きる私たちの理解を混乱させる記述が多いのです。これはキリストの復活が、私たち一人一人の信仰の生き方の土台をしっかりとした、実生活に根差したものにするようにと要求するものであることを意味しているのではないでしょうか。それにしても、主の復活に関する福音の記述には不思議なこと=私には奇妙なこと=が多すぎます。

まず、第一に、キリストの十字架上での死は金曜日の午後15:00でした。そして復活は日曜の早朝06:00前であったと思われます。キリストの死後40時間弱しか経っていないのに、マグダラのマリアやエマオへの帰途にある弟子たちは復活したばかりの師イエスに気づかないのです。部屋に閉じこもっていた弟子たちの中にも復活したキリストが現れても信じない弟子たちもいました。死後四十時間しか経っていないのに、復活したキリストが表れても、彼を信じ付き従っていた人たちは皆、復活したキリストを認識していないのです。これが私には不思議というよりも奇妙に見えます。しかし、その復活したキリストが何かのしるしを見せた時、一人の例外もなくその人が『私たちの先生、ナザレのイエスであり、死んだのに生き返った』と認め、『今も私たちの中に活きておられる』と宣言しました。

それでは、復活したキリストが示したしるしとはどんなものだったのでしょうか。私にとって、マグダラのマリアにはであり優しさでした。エマオへの弟子たちにとってはみことばの分かち合いでありパンの分かち合いでした。また暗闇を歩く恐怖ではなく、分かち合いによる歓びでした。他にも数えきれないほどの復活したキリストのしるし(赦し・信頼・平和etc.)が福音には記されています。さて皆さんにとって、何が復活したキリストの現存を認めるしるしでしょうか。そのしるしを通して人々が『キリストは復活し私たちの間で活きておられる』と宣言できるしるしでしょうか?