Catholic Diocese of Nagoya

福音のひびき

The sound of the gospel

復活節第6主日

2025年05月26日

福音箇所 ヨハネによる福音14章23-29節

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」

メッセージ

担当者 神言修道会 暮林 響

ベネディクト会の修道司祭であるアンセルム・グリューン師は、このように語っています。「復活とは、イエスが聖霊を通して、私たちの間におられるということ、私たちの中で愛を目覚めさせる力としてイエスがおられるということを意味します。復活された主は、聖霊のうちに、私たちと共におられ、決して私たちを見捨てることがありません。聖霊は神の未来であり、終わりのないものです。

神の交わりには、私たちは聖霊によって招き入れられます。その交わりは、イエスの死をもって壊れてしまうようなものではなく、むしろその死において、完全な形で示されました。福音史家ヨハネにとって、キリスト教の核心とは、「人が神に近づく」という驚くべき奇跡のことです。神はイエスを通して人に近づきました。そして、人と一つになられ、いつまでも人と一つであり続けます。ヨハネはこうしたことを黙想するにあたり、黙り続けてはいられませんでした。イエスの告別説教は、あらゆる角度から、このテーマを何度も何度も繰り返します。それは、読者が、神がイエスのうちにおり、イエスが神のうちにおられるということを読むごとにますます信じられるようになるためです。弁護者は、その引き続き続けられている現存を私たちに提供してくれます。私たちの心の中に、父と子が住む場所を持てるように居場所を空けます。もし神が私たちの中にお住まいになるのならば、私たちも自分のほんものの「わたし」と共に自らの内面に住まうことができ、そうして、自分自身をアットホームな居場所として受け入れることができるようになります。」

もしかすると、イエス様を愛することの方が、自分自身を愛することよりも簡単だと感じられる人がいるかもしれません。自分自身を受け入れられない気持ちになると、救いというのは自分からほど遠いものだと感じるものです。

イエス様が救い主として世に来られたというのなら、この惨めな気持ちになっている自分のことを見過ごすわけがありません。ラテン語源を見ると、憐れみというのは、惨めなことに共鳴できる心のことです。一方、惨めなことにどはまりして、自らを惨めなものと認定しその概念から意固地になって抜け出そうとしない状態が存在します。おそらく、救い主であるイエスを自らのうちに迎え入れるということは、この自己概念が貶められたり傷つけられたりして自己肯定感が低くなってしまった自分を愛で満たす力のある方を迎え入れることで、それによって自らが自分をも愛せる勇気がいただけます。それは世界を肯定できる力ともなると思います。

イエスによれば、イエスを愛する人は、イエスの言葉を守るそうです。イエスの言葉にはいろいろありましたが、究極的には、イエスが愛してくださったように互いに愛することです。イエスの愛は、父がイエスのうちにいてくださること、イエスが父のうちに迎え入れられることのうちに輝きます。迎えられ、迎える愛の交わりは、わたしたちに活力に満ちた愛を目覚めさせます。

その愛は、わたしたちに平和をもたらします。イエスが与える平和は、世が考えつくような平和ではありません。イエスの平和は、むち打ちの間でも、罵詈雑言を浴びせられる中でも、十字架上での叫びの中でも消えることのない平和です。とんでもない苦痛や拒絶があっても、わたしのうちには父がおり、この痛みの最中でも、わたしの全存在はわたしを全肯定している父のうちにあるのだ、という確信に根差す平和です。そして、その平和をつき従う人たちに残し、与える、と宣言されるイエスの心に満ちているのは、やはりひたむきに、そこに残していく人たちへの愛です。

聖霊はこのことを理解させ、納得させ、味わわせてくれます。それがすべてイエスが教えてくださったことだったのだ、と悟らせてくださいます。イエスのできごとを自分の出来事に結び付けて思い出させてくださり、平和が揺るがされそうになった時に、確かな平和に立ち戻らせてくれます。

今日、聖霊の働きに心を開き、その促しに委ね、主がわたしたちを招いてくださる父と子の交わりに留まりましょう。