「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 」ここでの小さな者とはだれか。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないのでやめさせようとしました。」
わたし達はキリストの名による共同体や聖書を起源とする共同体から声をかけられ、パンフレットをいただいたこともあると思います。私にはハガキに不平を書いて送られてきたこともあります。そのようなとき、何を感じたでしょうか。
第2の小さなものはキリストの弟子です。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」とキリストは語られます。この小さな弟子達は「誰がいちばん偉いか。」と議論するのです。私たちの共同体にも同じような現象が起きているでしょう。子供たちがクリスマス前に馬屋を日本的にほぼ完成させていました。ところが、外国のこともよく知っている方が「本当は岩で小」と言って洞窟型に作ってしまったのです。それ以来、子供たちは馬屋を作ることをしなくなりました。知らずに子供たちをつまずかせてしまったのです。その他のグループにもこうしたことは見られます。選ばれたリーダーは学歴もあり、職歴もよかったのです。そのためか上から目線で語ります。他の人は段々と距離を置くようになります。つまずかせたと気づいていないようです。
キリストは「すべての人に仕える者になりなさい。」と言われたことをすべての信者が知っています。説教によってでしょうか。氾濫している書物やネット情報によって、上にいると思っている人も、下にいると思っている人も知っているのです。僕だと思っている人も「本当に仕えているか。信仰を表しているか。」と人を見ていますが、自分の内面を見ていないのです。求道者は信仰深き人を求めていると知りつつも、お互いにつまずかせている共同体ではないのでしょうか。また、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり」と言われた通り、先になったのはキリストです。なぜなら、「殺されて、三日の後に復活する。」と予告されています。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」というキリストの言葉に、人々は言うでしょう。「厳しい、そんなことができるものか。」と。しかし、十字架に釘づけられたキリストの手を見なさい。十字架に釘づけられたキリストの足を見なさい。キリストはつまずかされた小さな者に更に恵みを与え、つまずかせる者にも救いを与え、神の国へと導いてくださいます。海よりも深く降り、海よりも深く仕えたいのです。」